松本清張と宮崎

2007年9月29日
歴史作家のべストテンを人気投票にかければ司馬遼太郎になるんではなかろうか。
日本の歴史上の出来事に関する諸著作は司馬史観と尊敬をこめ敬称をつけて呼ぶ。

そこまで人気が出ぬ前は昭和史発掘に集大成され「点と線」等のミステリーの著作の松本清張がその地位にあった。
司馬のその筆致テーマ随筆風に論壇風発の縦横無尽のマスコミにも乗った語りが清張に優ったのかもしれない。

ところでその視点で日向の歴史を見るとき松本清張に軍配を上げるのは天邪鬼なるせきやんの性格からくるのか。
いや事実の数々を清張ばりに発掘したからに他ならない。
日向の歴史は都於郡を抜いて語ることはできない。

それは何も伊東氏のみから始まるものでもなく日本国家建設のときに由来する。

掛けまくも畏き伊弉諾大神
 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に
 御禊祓へ給ひし時に
 生り坐せる祓戸の大神等 
 諸々の禍事罪穢有らむをば
 祓へ給ひ清め給へと白す事を聞食せと   
 恐み恐みも白す
 
 伊弉諾大神が身禊をされた
 「小戸」の地に由緒深き詞である

 祓詞は奏上することによりおのずと
 罪穢れを祓い清める畏き詞として
 現在も日本全国の神社において
 必ず奏上されている

大淀川の最下流は、古くから「小戸の渡」と呼ばれ、この地を訪れた伊東義祐が神話の世界に思いを
はせて詠んだといわれる歌碑が市役所の東玄関近くに立っている。

 「神代よりその名はいまも橘や小戸のわたりの舟の行く末」

「前の世じゃ志こたま貯めた男なり」

 小戸神社駐車場の隅ににある句碑。
 こんな捨て台詞を辞世の句にしたのは、日向狂歌
 の生みの親、目野丁勘切(めのちょかんきり)こと、
 目野清吉。
 (ちょかんきりとは『蜥蜴/とかげ』のこと

何度同じところをグルグルと回っているのであろう。
日向国内の百姓一揆と廃仏毀釈
白樺派と種蒔く人のクラルテ運動
松本清張と都於郡

伊東氏は伊豆よりいきなり都於郡「高屋」に本城を築き累々代を重ね日向全土を支配した。
さらには島津の支配区域さえ48の支城をもって威圧席巻する勢いであった。

木崎原の戦いで落ちる夕日の如く転落していった。
その累々重ねられた末の隆盛、その後の没落のはやさは歴史に鮮やかなる1ページを残している。

ここに不思議なることがある。何故いきなり都於郡「高屋」に下向したかである。
「高屋」はせきやんの調査の途中の説では秘密であるが公表すると天孫降臨のウミサチの陵墓跡である。

何故に伊東氏でさえこの地に居城をしたかの先例者がいた。
景行天皇自ら熊襲征伐のときの天皇仮皇居を定めたのがその根拠である。

島津がみずからの権威をよりどころにするためにもこの都於郡「高屋」がどうしてもほしかった。
伊東氏の領土がほしかったのでなく都於郡「高屋山稜」がほしかったのである。

いまでも雅楽の宮内庁の天皇家の諸行事に島津に由来する仮装が先頭を勤めるのがそれである。
ゆえにこのように高屋山稜の地と伊東が何故との自らに宿題を定めたかテーマを抱えこんでいる。

友人諸氏にご心配の掛け同士で申し訳ないどころか、お恥ずかしい次第。
先日は白き金銭入りの包みを両手を合わせて頂くはめで恥じ入っている。

法人化の苦悩で今しばらくお許しを頂き、
テレアポで初心から商売の根性を鍛えなおしている。
さて日々更新のブログゆえ時間がない。荒い筆致の中身となる。
伊東氏には少なくとも3人のお家の貢献者がいる。六代祐国がそうである。
業績はいずれ触れ省略する。

昭和14年頃、都於郡・光照寺は住職が無く困っていた。
六代祐国の菩提寺で供養塔もある。

小倉の日切地蔵院の住職であった今坂清通。
ご夫人は「つるゑ」小倉時代は裁縫の先生。

日切地蔵院の寺の広間を利用して若い娘さんを教えた。
魚売りの行商人がよくやってきた。
息子の嫁探しを兼ねていたのである。。

この頃松本清張は朝日新聞の小倉支局者見習。
父は魚の行商人。件の人である。

その人が内田直子さんを見初め世話することになった。
今坂夫妻が仲人の労をとった。

昭和57年5月17日住職は都於郡・光照寺で他界。
その翌年つるゑ夫人も他界。
文壇の重鎮に寸暇の時間もない。

松本清張より丁重なる香典が都於郡・光照寺に届いた。
都於郡・光照寺のお通や葬儀に集まった人々は
お和尚さんのお人柄御厚誼ぶりに驚くこと仕切り。

古来欠けねば両親は6名いた。
自分・妻・仲人親である。
ともに同じ扱いで生きたものだが今の時代は知らない。
自分の両親さえ親とも思わぬ風潮ゆえである。

小倉の松本清張記念館でも知れない逸話である。
松本清張は平成4年9月。に亡くなった。

九州に覇を競っていた伊東三位入道祐義のうた

旅は憂し 窓の月見る 今宵かな
牛窓風土物語。

「月もみつ またいかならむ 行く末の空」

元弘2年後醍醐天皇が隠岐に流さるるとき、摂津・今夜昆陽野・で詠んだ
行く末の 空知らぬとの 言の葉は
    今身の上の 限りなりけり

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