長岡藩米百俵
2007年8月31日日向のこの時期の夕暮れは真っ赤な光が西の山々を黒く浮かび上がらせ
しばしその一幅の名画の光景に視線は止まる。
新潟市のホテル・イタリア軒。
1874(明治7)年、イタリア人ピエトロ・ミリオーレが開いた新潟初の西洋レストラン。
最上階の「佐渡の間」からは日本海と佐渡が一望できる。
佐渡の島影が真っ赤に燃える夕暮れで浮かび上がるのに似ている。
8月31日、9月1、2日の3日間、新潟市民芸術文化会館(りゅーとぴあ)劇場で
政令指定都市記念の行事が開催される。
ミュージカル「明和義人」が劇団わらび座で上演され、「下駄総踊り」で300人の市民が参加する。
30年前のことになろうか。
富山新潟秋田青森と旅したときに新潟のみがこの田舎宮崎より街並みが大きいと思ってた
今ごろ30万都市突破に与えられる政令指定都市?とは解せぬ。
この田舎宮崎でさえ、もうずいぶんとなる。
偏狭の地宮崎で思うほど大陸を敵視してないのに安心した。
市長の動向を見ると日ロ沿岸市長会議ブラゴベシチェンスク市とある。
ジャーナリスト出身篠田昭市長は大忙しのことであろう。
長岡藩は小泉首相の「長岡藩に支藩三根山藩から百俵の米が贈られた美談」で全国区になった。
同じ長岡藩には新潟湊が税の不平等に蜂起した「義人・涌井藤四郎」の隠された美談が合った。
新潟生まれの作家・火坂雅志が「明和義人」を書き上げた。
「旭湊俚諺明和間記」井上馬来著などの古文書も保存されていた。
240年前老中・田沼意次の頃
飢饉に苦しむ長岡藩は新潟湊を運営する新潟町に
「1500両の御用金を2年で納めろ!」と命じた。
2年目の750両を工面できず、涌井藤四郎を中心にした町民は延納の嘆願書を出そうと寺に集まった。
「徒党」とみなされ「企ては発覚」され首謀者藤四郎は投獄。
激高した町民は1768(明和5)年9月26日の深夜、早鐘を合図に一斉蜂起。
町役人宅や米屋などを打ち壊した。
町奉行側は鉄砲隊で攻撃したが、町人側はまきを投げて応戦。
沈静化のため町奉行は藤四郎を釈放し、彼は藩に代わって町民自治を行った。
11月22日、藤四郎は長岡藩側の策略で捕らえられ、2年後に市中引き回しの上、斬首。
パリ・コミューンより100年も前に約2カ月であれ町民自治が実現した
歴史を発掘して先陣に学ぶその姿勢や良し。
荒海や佐渡によこたふ天河
国道402号で新潟県を日本海に沿って行くと、弥彦山がある
新潟(きさかた)から酒田へ戻った芭蕉は、日本海沿いを南下。
古くからの佐渡への渡航地である出雲崎で詠んだ句、
黄金と流人の島・佐渡、荒波、そして夜空に横たわる天の川という3者の取り合わせ
悲痛な孤独感が感じられる名句。
荒海やノ碑は弥彦神社ではなく、宝光院にある。
芭蕉は西生寺を経て出雲崎に行く。
四日 快晴。風、三日同風也。辰ノ上刻、彌彦ヲ立。弘智法印像為レ拝。峠ヨリ右へ半道斗行。
谷ノ内、森有、堂有、像有。二三町行テ、最正寺ト云所ヲノズミト云濱へ出テ、十四五丁、
寺泊ノ方ヘ來リテ左ノ谷間ヲ通リテ、國上へ行道有。荒井ト云、塩濱ヨリ壱リ計有。寺泊ノ方ヨリハワタベ
ト云所ヘ出テ行ク也。寺泊リノ後也。壱リ有。同晩、申ノ上刻、出雲崎ニ着、宿ス。夜中、雨強降。
天領地。出雲崎
間口が狭い妻入りの町並みの長さ3,6kmは日本ギネスの長さ。
良寛誕生地・良寛の町でもある。。
北国街道には天領の響きでか、山頭火も訪ねている。
出雲崎では地下石油採油を機械の力で日本最初に採掘していたところ。
石油採掘記念館で当時が見れる。
今は原子力。ただ、原子力施設の存立の前提の地盤が地震で割れた。
柏崎のその後は地元の生活も含め東京に送ってる電力のことも
選挙結果の政治問題先行でマスコミは沈静化してるようだ。
東京電力勝俣社長「原発の中心的な機械ビクトモしなかった。一年後に再開」
原発は電力会社が作るのではなく、日立東芝三菱メーカーが作ったもの。
メーカーにしかわからないはずだ。
メーカーにとってお客さんが電力会社との関係。
表に出てコメントできない社会的制約がある。
原子炉圧力容器、再循環、ポンプ耐震
ビクトもしなかったと何を基準に言ってるのか。
確認しないと言えない。
岩盤の地盤が地割れしてるわけで一年後に再開とは何を基準にいえるのか。
現地の総点検は終了していない。
たわみゆがみは点検でもわからない。
ましてや、基礎はコンクリートの地下で点検が早急にできない。
施設を支える基礎の破壊試験など実施すら出来ない。
よく絶えた設計の3倍の揺れで、建て屋は部分が曲がっている。
チャイナシンドロームに至らずまるで神がかりの奇跡。
震度の大きさに3倍の設計基準を超えたゆれ。加重条件を考えると凍りつく。
多重防衛も予測を超えるとどうにも答えようも無い。
消火活動が出来ないほど配管がゆがんで水が出ていない現状の揺れがあった。
原発施設が影響を受けてないはずが無い。
厳密にいえることは施設全体は使えないのではなかろうか。
IREA?国際調査団どうしてるの。
「ゴメンナサ〜イ!」
林家三平師匠を思い出す。
根岸の師匠は本来は三平では重みが足りなかったあのスーパースターでさえ。
林家正蔵の大名跡が復活し早く名実とも根岸の師匠に大化けして欲しい。
それにしてもあの広大な敷地の根岸の三平邸宅の狭くなったこと。
かっての三平堂のみではないか。
この路地沿いの4軒隣ぐらいに根岸・子規庵はある。
松岡子規が晩年を過ごしたところで夏目漱石のロンドンからの頼りもここについてたわけである。
野球に貢献した子規を称え上野のお山には子規野球場が芸大隣にある。
子規が元気なら今年の甲子園をどう評価したろう。
日向・川南のDNAたる阿久悠にも語らせたかった。
佐賀商以来13年ぶりの深紅の優勝旗。。
中身がまた一段と違う。
推薦入学事件の黒い霧を爽やかに一編に吹き飛ばした。
監督は国語教師百崎敏克(51)
野球より人間性。
部員全員と毎日欠かさず交換日記を交わしている。
甲子園でも一日欠かさず続けられた。
ベンチ入りは58人から投票で選んだ。
野球も教育の一環。
テストで赤点は練習できない。赤点二つはレギュラーでも出れない。
総ての人々のこのチームへの共通評価は「礼儀正しい」
甲子園名門・広陵セミプロ集団と文武両道の公立普通高校進学校の佐賀北。
専門のグランドも無くサッカー部と共用。昔スタイル
試合を分けたのはやはり満塁ホーマー。ヒーロー副島浩史。
佐賀北高学校の隣スーパー内のたこ焼き屋・野中幸男(42)
野球部全員に対して
「あの子達は後輩をバシリに使うことは、ぜんぜんなかね」
甲子園に行く前に通りかかった。副島浩史。
頑張ってねと声を掛けた。しばらく話した後で
それジャァと店から2〜3歩離れてから改めて振り向いて
気を付け!してから
「かんばってきます!」
深々と礼をしたもんね
こうゆうことが言われ思わず泪したせきやん。
すっかり「がばい!」づいた列島。
佐賀県人評
「目立たないが包容力おとなしそうだがしっかりもの辛抱強い頑張りや佐賀県人」
宮崎での先人たちが交わしてた事を覚えている。
「大分や佐賀人の後は草木も生えん!」
子規らの作品が新発見された。
伝えられていた、ことが現存していたのである。
1900年(明治30年)
浅井忠、中村不折、下村為山の洋行をまえに送迎会が開かれた。
このとき集まった人々がその場で記念物を書いた
それがめっかった!
107年前のものである。
不思議な国である。
縦144横82,5
和紙に軸表装
遊び心の絵に満ち溢れている。
踊る唐笠の妖怪、瓢箪、墨や顔料を使い軽妙に描写されている。
島飾りや大杯正月の風物の二点。
風ひきし初卯まいりの美人なり 子規
はるの夜のうつつ心やまどゐして 虚子
うたげの雰囲気が充分に感じられる。
この時期の芸術家の交流のが偲べる。
9月1日から30日まで台東区根岸子規庵
企画展「戯画と子規」平出多摩美大渡欧送別会の講演がある。
小三治師匠の根岸の「茶の湯」噺の高座が聞きたくなってきた。
あの飄々とした雰囲気は誰も出すことは出来ない。
緑陰の 雨蝉時雨 茶の湯かな。 せきやん
蝉しぐれ うすくなりおり すすきかな せきやん
8回目の晦日を迎え風さえ涼しき一体どうなるのか。
それによりも何よりもこの歯の激痛どうにかならぬか。
しばしその一幅の名画の光景に視線は止まる。
新潟市のホテル・イタリア軒。
1874(明治7)年、イタリア人ピエトロ・ミリオーレが開いた新潟初の西洋レストラン。
最上階の「佐渡の間」からは日本海と佐渡が一望できる。
佐渡の島影が真っ赤に燃える夕暮れで浮かび上がるのに似ている。
8月31日、9月1、2日の3日間、新潟市民芸術文化会館(りゅーとぴあ)劇場で
政令指定都市記念の行事が開催される。
ミュージカル「明和義人」が劇団わらび座で上演され、「下駄総踊り」で300人の市民が参加する。
30年前のことになろうか。
富山新潟秋田青森と旅したときに新潟のみがこの田舎宮崎より街並みが大きいと思ってた
今ごろ30万都市突破に与えられる政令指定都市?とは解せぬ。
この田舎宮崎でさえ、もうずいぶんとなる。
偏狭の地宮崎で思うほど大陸を敵視してないのに安心した。
市長の動向を見ると日ロ沿岸市長会議ブラゴベシチェンスク市とある。
ジャーナリスト出身篠田昭市長は大忙しのことであろう。
長岡藩は小泉首相の「長岡藩に支藩三根山藩から百俵の米が贈られた美談」で全国区になった。
同じ長岡藩には新潟湊が税の不平等に蜂起した「義人・涌井藤四郎」の隠された美談が合った。
新潟生まれの作家・火坂雅志が「明和義人」を書き上げた。
「旭湊俚諺明和間記」井上馬来著などの古文書も保存されていた。
240年前老中・田沼意次の頃
飢饉に苦しむ長岡藩は新潟湊を運営する新潟町に
「1500両の御用金を2年で納めろ!」と命じた。
2年目の750両を工面できず、涌井藤四郎を中心にした町民は延納の嘆願書を出そうと寺に集まった。
「徒党」とみなされ「企ては発覚」され首謀者藤四郎は投獄。
激高した町民は1768(明和5)年9月26日の深夜、早鐘を合図に一斉蜂起。
町役人宅や米屋などを打ち壊した。
町奉行側は鉄砲隊で攻撃したが、町人側はまきを投げて応戦。
沈静化のため町奉行は藤四郎を釈放し、彼は藩に代わって町民自治を行った。
11月22日、藤四郎は長岡藩側の策略で捕らえられ、2年後に市中引き回しの上、斬首。
パリ・コミューンより100年も前に約2カ月であれ町民自治が実現した
歴史を発掘して先陣に学ぶその姿勢や良し。
荒海や佐渡によこたふ天河
国道402号で新潟県を日本海に沿って行くと、弥彦山がある
新潟(きさかた)から酒田へ戻った芭蕉は、日本海沿いを南下。
古くからの佐渡への渡航地である出雲崎で詠んだ句、
黄金と流人の島・佐渡、荒波、そして夜空に横たわる天の川という3者の取り合わせ
悲痛な孤独感が感じられる名句。
荒海やノ碑は弥彦神社ではなく、宝光院にある。
芭蕉は西生寺を経て出雲崎に行く。
四日 快晴。風、三日同風也。辰ノ上刻、彌彦ヲ立。弘智法印像為レ拝。峠ヨリ右へ半道斗行。
谷ノ内、森有、堂有、像有。二三町行テ、最正寺ト云所ヲノズミト云濱へ出テ、十四五丁、
寺泊ノ方ヘ來リテ左ノ谷間ヲ通リテ、國上へ行道有。荒井ト云、塩濱ヨリ壱リ計有。寺泊ノ方ヨリハワタベ
ト云所ヘ出テ行ク也。寺泊リノ後也。壱リ有。同晩、申ノ上刻、出雲崎ニ着、宿ス。夜中、雨強降。
天領地。出雲崎
間口が狭い妻入りの町並みの長さ3,6kmは日本ギネスの長さ。
良寛誕生地・良寛の町でもある。。
北国街道には天領の響きでか、山頭火も訪ねている。
出雲崎では地下石油採油を機械の力で日本最初に採掘していたところ。
石油採掘記念館で当時が見れる。
今は原子力。ただ、原子力施設の存立の前提の地盤が地震で割れた。
柏崎のその後は地元の生活も含め東京に送ってる電力のことも
選挙結果の政治問題先行でマスコミは沈静化してるようだ。
東京電力勝俣社長「原発の中心的な機械ビクトモしなかった。一年後に再開」
原発は電力会社が作るのではなく、日立東芝三菱メーカーが作ったもの。
メーカーにしかわからないはずだ。
メーカーにとってお客さんが電力会社との関係。
表に出てコメントできない社会的制約がある。
原子炉圧力容器、再循環、ポンプ耐震
ビクトもしなかったと何を基準に言ってるのか。
確認しないと言えない。
岩盤の地盤が地割れしてるわけで一年後に再開とは何を基準にいえるのか。
現地の総点検は終了していない。
たわみゆがみは点検でもわからない。
ましてや、基礎はコンクリートの地下で点検が早急にできない。
施設を支える基礎の破壊試験など実施すら出来ない。
よく絶えた設計の3倍の揺れで、建て屋は部分が曲がっている。
チャイナシンドロームに至らずまるで神がかりの奇跡。
震度の大きさに3倍の設計基準を超えたゆれ。加重条件を考えると凍りつく。
多重防衛も予測を超えるとどうにも答えようも無い。
消火活動が出来ないほど配管がゆがんで水が出ていない現状の揺れがあった。
原発施設が影響を受けてないはずが無い。
厳密にいえることは施設全体は使えないのではなかろうか。
IREA?国際調査団どうしてるの。
「ゴメンナサ〜イ!」
林家三平師匠を思い出す。
根岸の師匠は本来は三平では重みが足りなかったあのスーパースターでさえ。
林家正蔵の大名跡が復活し早く名実とも根岸の師匠に大化けして欲しい。
それにしてもあの広大な敷地の根岸の三平邸宅の狭くなったこと。
かっての三平堂のみではないか。
この路地沿いの4軒隣ぐらいに根岸・子規庵はある。
松岡子規が晩年を過ごしたところで夏目漱石のロンドンからの頼りもここについてたわけである。
野球に貢献した子規を称え上野のお山には子規野球場が芸大隣にある。
子規が元気なら今年の甲子園をどう評価したろう。
日向・川南のDNAたる阿久悠にも語らせたかった。
佐賀商以来13年ぶりの深紅の優勝旗。。
中身がまた一段と違う。
推薦入学事件の黒い霧を爽やかに一編に吹き飛ばした。
監督は国語教師百崎敏克(51)
野球より人間性。
部員全員と毎日欠かさず交換日記を交わしている。
甲子園でも一日欠かさず続けられた。
ベンチ入りは58人から投票で選んだ。
野球も教育の一環。
テストで赤点は練習できない。赤点二つはレギュラーでも出れない。
総ての人々のこのチームへの共通評価は「礼儀正しい」
甲子園名門・広陵セミプロ集団と文武両道の公立普通高校進学校の佐賀北。
専門のグランドも無くサッカー部と共用。昔スタイル
試合を分けたのはやはり満塁ホーマー。ヒーロー副島浩史。
佐賀北高学校の隣スーパー内のたこ焼き屋・野中幸男(42)
野球部全員に対して
「あの子達は後輩をバシリに使うことは、ぜんぜんなかね」
甲子園に行く前に通りかかった。副島浩史。
頑張ってねと声を掛けた。しばらく話した後で
それジャァと店から2〜3歩離れてから改めて振り向いて
気を付け!してから
「かんばってきます!」
深々と礼をしたもんね
こうゆうことが言われ思わず泪したせきやん。
すっかり「がばい!」づいた列島。
佐賀県人評
「目立たないが包容力おとなしそうだがしっかりもの辛抱強い頑張りや佐賀県人」
宮崎での先人たちが交わしてた事を覚えている。
「大分や佐賀人の後は草木も生えん!」
子規らの作品が新発見された。
伝えられていた、ことが現存していたのである。
1900年(明治30年)
浅井忠、中村不折、下村為山の洋行をまえに送迎会が開かれた。
このとき集まった人々がその場で記念物を書いた
それがめっかった!
107年前のものである。
不思議な国である。
縦144横82,5
和紙に軸表装
遊び心の絵に満ち溢れている。
踊る唐笠の妖怪、瓢箪、墨や顔料を使い軽妙に描写されている。
島飾りや大杯正月の風物の二点。
風ひきし初卯まいりの美人なり 子規
はるの夜のうつつ心やまどゐして 虚子
うたげの雰囲気が充分に感じられる。
この時期の芸術家の交流のが偲べる。
9月1日から30日まで台東区根岸子規庵
企画展「戯画と子規」平出多摩美大渡欧送別会の講演がある。
小三治師匠の根岸の「茶の湯」噺の高座が聞きたくなってきた。
あの飄々とした雰囲気は誰も出すことは出来ない。
緑陰の 雨蝉時雨 茶の湯かな。 せきやん
蝉しぐれ うすくなりおり すすきかな せきやん
8回目の晦日を迎え風さえ涼しき一体どうなるのか。
それによりも何よりもこの歯の激痛どうにかならぬか。