12月2日の日記
2007年12月2日街の木々はスッカリ黄葉している。
雨のなき日々の中、師走は早い。
木葉降りやまずとも いそぐな いそぐな
今日の誕生日の花はまんさく
花言葉は早熟。
他に先駆けて木に花をつけている。
新撰組さんに配達してたら蔵元の時代背景を聴かれた。
「ブログみてくださ^〜い。」
というわけで歴史の履修。
藤正宗酒造は今から184年前の1823年頃に阿蘇の麓に創立されました
文化文政時代がの爛熟文化が地方に及んだ成果の一つ。
時代背景は次のようでした。
化政文化といわれる時代区分があります。
江戸時代後期,徳川家斉(いえなり)が11代将軍として政治をとった時代の
文化〜文政年間(1804〜1830年)を中心にした時期。
略して化政期ともいいます。
町人のゆたかな経済力を背景に,江戸時代後半,江戸を中心にさかえた町人文化。
文化・文政年間(1804〜1830年)が最盛期にあたるので化政文化とよばれている。
それは江戸を中心とした町人文化。
17世紀の大阪を中心とした元禄文化に代わり,この時代江戸を中心とした町人文化がさかんになってきた。
これが化政文化。
元禄文化にくらべて,いきいきとした明るさや,はなやかさがうしなわれたが,こった好みやこっけいがよろこばれるなど,町人文化として円熟したもの。
文化のにない手が都市の豪商だけでなく庶民までふくみ,地方にまで文化が広がったことも,この文化の特色。
〔文化の内容〕
(1)文学…十返舎一九*の『東海道中膝栗毛』,
式亭三馬の『浮世風呂』などのこっけい本,
為永春水の『春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)』などの人情本,
滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』などの読本,
柳亭種彦(りゅうていたねひこ)の『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』などがよく読まれた。
俳諧では,与謝蕪村*が自然をうたい,小林一茶*は思いやりの深い人生詩をうたった。
また,政治や社会をひにくった狂歌では大田南畝*(蜀山人)が活躍し,当時の世相をひにくった川柳も新しい文芸としてもてはやされた。
(2)美術…浮世絵が発達して多色刷りの錦絵が生まれ,喜多川歌麿*の美人画,葛飾北斎*や歌川(安藤)広重*の風景画,東洲斎写楽*の役者絵などがかかれた。
このほか,渡辺崋山の文人画,円山応挙の写生画も有名。
司馬江漢は西洋画の遠近法を取り入れ,油絵や銅板画をえがいている。
(3)庶民の娯楽…歌舞伎が人形浄瑠璃の人気を圧倒し,名優があらわれてりっぱな劇場ができた。
また,伊勢参りなど寺社参詣や西国への巡礼に出かける人がふえ,京都の祇園祭・江戸の神田祭をはじめ,村祭りや盆踊りもさかんになった。
初代将軍:徳川家康 二代将軍:徳川秀忠
三代将軍:徳川家光 四代将軍:徳川家綱
五代将軍:徳川綱吉 六代将軍:徳川家宣
七代将軍:徳川家継 八代将軍:徳川吉宗
九代将軍:徳川家重 十代将軍:徳川家治
十一代将軍:徳川家斉 十二代将軍:徳川家慶
十三代将軍:徳川家定 十四代将軍:徳川家茂
十五代将軍:徳川慶喜
11代将軍 徳 川家斉
綱吉の甥。 オットセイ将軍。
なんと28男27女をもうけた。その他にも御落胤が何人も……
それらの子の片づき場所を確保するため、あちこちの大名家に無理を強いた。
家斉の21女溶姫を押し付けられた加賀藩主前田斉泰は、彼女を迎えるために藩邸に赤い門をわざわざ建立した。
これが後に移築されて東大名物の赤門となった。
文化文政時代到来。江戸期文化の爛熟期。
時代劇に出てくる風俗は大体この時代のもの。
元禄時代のはずの水戸黄門や忠臣蔵モノでも同様。女性の髷の形からして違うんですが……
生きているうちに太政大臣になった武家出身の人物は、彼を含めてたった6人しかいない。
あと5人は、平清盛・足利義満・豊臣秀吉・徳川家康・徳川秀忠。
ちなみに織田信長には明治になってから太政大臣の官位が追贈された。
法度類を変更しないようにと綱吉から遺言されたが、さっさと生類哀れみの令を廃止してしまった。
新井白石を重用したが、白石が経済音痴だったので財政悪化。
没年 1773(安永2)年〜1841(天保12)年 69歳
将軍在位 1787(天明7)年〜1837(天保8)年
父:徳川治斉(一橋家) 母:お富の方 弟:徳川斉敦 徳川斎匡(田安家)
息子:徳川家慶 徳川斉順(紀伊家) 徳川斉明(清水家4代) 徳川斉荘(田安家) 池田斉衆
松平斉民 徳川斉温(尾張家) 松平斉良 徳川斉彊(清水家5代) 松平斉善 蜂須賀斉裕
松平斉省 松平斉宣
業績
・将軍自身が退廃的な生活をおくったため、締め付けが緩くなった町人の間で化政文化が花開く。
・業績ではないが、水戸家以外、多くの徳川・松平一族を自分の息子で固める。
、家斉は50年間も将軍の座に就き、更に4年大御所として絶大な権力をふるい
、大奥に山ほどの女性を侍らせ莫大な経費が発生。さらに多くの子供を産ませたため、多くの持参金を持たせて養子に出したり、嫁にやったりし、大名家の中には、この持参金目当てで家斉から養子を迎えたところもあったほど。それだけ金額としてはでかいわけで、大奥関連の経費は幕府に膨大な負担を強いた。
それでも初期は松平定信を登用し、寛政の改革が行われたが、大奥関連の経費を大幅削減したことから疎んじ、さらに自分の父に大御所の名を与えようとしたところ、定信に「将軍ではないと大御所にはなれない」と猛反対され、一方朝廷でも、同じようなことをしようとした光格天皇に対し反対。プッツンときた家斉は松平定信を解任してしまった。
その後しばらくは松平定信の息のかかった松平信明らが改革路線(といっても、寛政の改革は復古主義・保守的だが)を継続。しかし松平信明が病死すると、側用人だった水野忠成を老中首座に据え、松平定信が禁止した「賄賂」を公然と認め、奨励。必要経費には貨幣を改鋳し、乱発して対応し、もちろんインフレが発生した。
ただし、そんな将軍様の治世でありますから、インフレ問題を除けば庶民への圧迫は少なく、化政文化が花開く(ゴージャスで退廃的との評もあるが)。庶民から見れば、なかなかの将軍様だったかも。実際、次の家慶の時、老中水野忠邦は随分とまあ、風紀規制、贅沢品禁止などで庶民を締め付けましたから・・・。
そんなわけで、幕府改革の面からではダメ将軍だが、見方・視点を変えれば、また評価も変わってくるわけである。
家斉引退の2ヶ月前に発生した、大塩平八郎の乱は、幕府身内からの反乱と言うことで大きな衝撃を与えたが、大御所となった後も家斉とその側近、その代表格、水野忠篤、美濃部茂育(もちなる)、中野清茂らによる退廃は止まらず、「大御所時代」と呼ばれた。
この時、日本にはモリソン号など外国船が多く到来。
いよいよ激動の幕末を迎えるに当たり、家斉は幕府に多大なる借金と弛緩を残しこの世を去った。
69歳。将軍にしては家康、慶喜に継ぐ高齢である。
江戸時代
1787年 天明の打ちこわしが起こる。
田沼意次が失脚。保守派のドン、( 松平定信 ) 老中に。寛政の改革の初め。早速倹約令をだす。
1789年 旗本・御家人の借金帳消しよ、の( 棄損令 )をだ す。
米の備蓄などを定めた( 囲い米の )制をだす。
1790年 職業訓練施設ともいえる( 人足寄場 )を江戸の石川島に設立。
1791年 お金をちゃんと積み立てて災害時などに使おうという( 七分積金 )の制が出される。
1792年 ( 海国兵談 )・「三国通覧図説」の著者、林子平が蟄居を命じられ本は絶版となる。
ロシアの( ラクスマン )が漂流民・大黒屋光太夫を連れて根室に来航。通称を要求するが、幕府はまた今度ねと追い返 す。なお、光太夫はロシアの情報を幕府に報告した後は、幕府に監視された飼い殺しのような状況下におかれる。一般市 民にロシアのことを喋るな、とのこと。
1793年 松平定信、老中を辞任。将軍家斉がお金を使いまくる政治を開始。彼は側室も何十人も持ち、子供の数も55人。この頃か ら特に、大奥の権勢が強まり改革をことごとく阻害し始める。倹約が嫌だから、が彼女たちの理由。
1798年 ( 近藤重蔵 )が千島列島を探検。
1800年 ( 伊能忠敬 )が蝦夷地を探検。
1802年 十返舎一九が( 東海道中膝栗毛 )を著し、ヒットする。
1804年 ロシアの( レザノフ )が漂流民送還のため長崎に来航。同時に通商を求めるが拒絶される。
1805年 関東のならず者を取り締まるため( 関東取締出役 )を設置する。
1808年 間宮林蔵が( 樺太 )を探検。翌年、後の間宮海峡を発見。
( フェートン )号事件。イギリス船が長崎に侵入し、薪水・食料を強要して帰る。長崎奉行は切腹する。
1809年 式亭三馬が「浮世風呂」を著す。
1811年 ( ゴローウニン )事件。ロシアの軍艦艦長( ゴローウニン )を国後島で逮捕。翌年、ロシアが高田屋嘉兵衛(択捉航路を 開いた人) を国後島で逮捕し、その翌年に交換する。
1814年 滝沢馬琴が( 南総里見八犬伝 )の執筆を開始。
1817年 イギリス船が浦賀に来航する。
1821年 伊能忠敬の日本全図が完成。
1822年 大蔵永常が( 農業便利論 )を著す。
1823年 この頃・・藤正宗酒造創立
1825年 異国船打払令、またの名を( 無二念打払令 )がだされる。
1827年 薩摩藩において( 調所広郷 )が藩政改革を始める。
改革内容は、琉球との密貿易、奄美大島特産のサトウキビの専売(領民を相当しごいた)、借金の返済期日を無理矢理に 長期にわたって延期させたことであり、かなり過激。まさに「痛みを伴う改革」。
頼山陽が( 日本外史 )を著す。 源平2氏から徳川に至るまで、武家が政権を握る過程を著述。「史記」を模範とし、尊皇 攘夷運動に影響。
1828年 シーボルト事件。伊能忠敬の師匠の息子で、幕府天文方の( 高橋景保 )がオランダ商館医師のドイツ人シーボルトに日 本地図を譲り 処罰をうけ、シーボルトは国外追放となる。なお、シーボルトといえば長崎で開いた塾( 鳴滝塾 )を覚えてお こう。この塾の門下生が日本の近代医学に少なからず貢献することになる。
1829年 葛飾北斎が( 富嶽三十六景 )を描く。
1830年 水戸藩主徳川斉昭が藩政改革を始めるが、藩内は派閥闘争に明け暮れ幕末まで尾を引く。
1832年 ( 為永春水 )が春色梅子誉美〜しゅんしょくうめごよみ〜を著す。
1833年 歌川広重が( 東海道五十三次 )を描く。海外の画家に大きな衝撃。
1834年 ( 水野忠邦 )が老中となる。41年の大御所家斉の死をもって天保の改革を始める。
1837年 ( 大塩平八郎 )の乱。大坂で元大坂奉行所与力の( 大塩平八郎 )が、貧民を救済しない幕府の態度に対し反乱を起こ す。すぐに鎮圧されるが、幕府内部からの反乱と言うことで衝撃は大きかった。
越後柏崎において国学者の( 生田万 )が( 大塩平八郎 )にならい反乱を起こす。もちろん鎮圧された。
アメリカ商船モリソン号が漂流民を届けに来たところを砲撃される。
1838年 中山みきが( 天理 )教を創始する。
高野長英が( 戊戌夢物語 )、渡辺崋山が( 慎機論 )を著し、密かにモリソン号に対する幕府の打ち払いの行動など幕 政を批判。
ところがこれがばれてしまい処罰。崋山は自殺。長英は牢に入った後、脱獄し各地を転々とし大名の保護を受けるが、江戸 に戻ったところを見つかり、自殺を図り獄中で死亡。これら、蘭学者に対する弾圧を( 蛮社の獄 )という。
1841年 天保の改革スタート。株仲間が解散させられる。
1842年 天保の薪水給与令。打ち払い令を緩和し、外国船に薪水食料を与えることで穏便に事を済ませることにした。
1843年 人返しの法、上知令が出る。基本なので内容は略。これで忠邦は自滅し辞任。かわりに福山藩主( 阿部正弘 )が老中 首座に。藩主には珍しい賢者だったが残念なことにペリー来航のごたごたの中で病死。
1846年 アメリカの( ビットル )が浦賀に来航し、通商を要求。
1850年 ( 佐賀 )藩で、日本初の反射炉が建設される。工業化の第一歩。
1851年 高知藩の人で漂流民となった中浜(ジョン)万次郎がアメリカより帰国。
( 本木昌造 )が鉛活字を鋳造。活版印刷を始める。
薩摩藩で藩主の( 島津斉彬 )が改革を始め、製錬所や反射炉を造る。
1853年 ペリーが浦賀に来航。開国しなさいと勧告して帰る。
1854年 ペリーが再び来航。返事はいかにとせまり、仲良くしましょうという日米和親条約(別名:神奈川条約 )が結ばれる。各列 強もこれにならう。
1855年 蛮書和解御用掛を洋学所とする。これは56年に( 蛮書調所 )に、62年に洋書調所に、63年に( 開成所 )と組織が変 更する。入試でよく出るから注意。
1856年 アメリカ総領事として( ハリス )が着任。通称を要求する。
1858年 老中首座堀田正睦〜ほったまさよし〜が朝廷に「如何しましょう」と、お伺いを立てたところ、外国と通商などもってのほ か!と拒絶され、幕府の権威を失墜させる。
井伊直弼が大老となり、アメリカと( 日米修好通商条約 )を結ぶ。
( 安政の大獄 )で、橋本左内、頼三樹三郎<頼山陽の息子>、吉田松陰らが死刑、徳川斉昭らが謹慎となる。
1860年 条約批准のため、新見正興を正使に勝海舟らがアメリカに行く。
桜田門外の変。井伊直弼、水戸藩浪士らに暗殺される。
1861年 孝明天皇の妹和宮が将軍徳川家茂に嫁ぐ<公武合体>。
1862年 ( 坂下門外 )の変。老中安藤信正が、尊王攘夷派の志士に襲われ傷を負うが逃げ切る。しかし「逃げるとは武士の恥」と 弾劾され老中を罷免される。
1863年 ( 長州 )藩が外国船を( 下関 )で砲撃。
高杉晋作が( 奇兵 )隊を設立。
( 薩英 )戦争。生麦事件の報復にイギリスが鹿児島を砲撃。薩摩藩の意外に手強い抵抗に、イギリスが少し考えを改 め、薩摩藩の支援をおこなうことにした。
( 八月十八日 )の政変。公武合体派の公家達が、三条実美ら長州藩寄りの尊王攘夷派公家を追放。これを七卿落ちと もいう。
1864年 フランスの公使として( ロッシュ )氏が着任。後に徳川慶喜の顧問として全面支援を行う。
( 池田屋 )事件。尊皇攘夷派志士を取り締まる、新撰組が志士達を襲い、大打撃を与える。
( 禁門 )の変。長州藩士達が上京し、会津・薩摩藩の連合軍に敗れ去る。蛤御門の変とも。
幕府、第一次長州征伐を開始。
下関砲撃事件の報復として、イギリスなどの四国連合艦隊が下関を砲撃。長州藩、幕府と四国に謝罪をする。
1866年 坂本龍馬らの必死の仲介で薩摩藩と長州藩が、秘密裏に軍事同盟を結ぶ。これを( 薩長同盟 )という。
1866年 幕府、第二次長州征討を開始。しかし、将軍徳川家茂の死去と、小倉藩が長州藩に敗北したためおじけづいた新将軍・ 徳川慶喜が中止させる。 しかし、幕府権威は失墜。
1867年 前土佐藩主・山内豊信が、幕府に朝廷に政権を返してはいかがという( 大政奉還 )を建白。慶喜、これを了承すし、朝 廷に奏上する。 ところが、同日に薩長に倒幕の密勅がくだる。
( 王政復古の大号令 )・・・天皇中心の新政府が樹立が宣言される。同時に小御所会議が開かれ、慶喜に対し、官位辞 退と領地返上を命じる。
雨のなき日々の中、師走は早い。
木葉降りやまずとも いそぐな いそぐな
今日の誕生日の花はまんさく
花言葉は早熟。
他に先駆けて木に花をつけている。
新撰組さんに配達してたら蔵元の時代背景を聴かれた。
「ブログみてくださ^〜い。」
というわけで歴史の履修。
藤正宗酒造は今から184年前の1823年頃に阿蘇の麓に創立されました
文化文政時代がの爛熟文化が地方に及んだ成果の一つ。
時代背景は次のようでした。
化政文化といわれる時代区分があります。
江戸時代後期,徳川家斉(いえなり)が11代将軍として政治をとった時代の
文化〜文政年間(1804〜1830年)を中心にした時期。
略して化政期ともいいます。
町人のゆたかな経済力を背景に,江戸時代後半,江戸を中心にさかえた町人文化。
文化・文政年間(1804〜1830年)が最盛期にあたるので化政文化とよばれている。
それは江戸を中心とした町人文化。
17世紀の大阪を中心とした元禄文化に代わり,この時代江戸を中心とした町人文化がさかんになってきた。
これが化政文化。
元禄文化にくらべて,いきいきとした明るさや,はなやかさがうしなわれたが,こった好みやこっけいがよろこばれるなど,町人文化として円熟したもの。
文化のにない手が都市の豪商だけでなく庶民までふくみ,地方にまで文化が広がったことも,この文化の特色。
〔文化の内容〕
(1)文学…十返舎一九*の『東海道中膝栗毛』,
式亭三馬の『浮世風呂』などのこっけい本,
為永春水の『春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)』などの人情本,
滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』などの読本,
柳亭種彦(りゅうていたねひこ)の『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』などがよく読まれた。
俳諧では,与謝蕪村*が自然をうたい,小林一茶*は思いやりの深い人生詩をうたった。
また,政治や社会をひにくった狂歌では大田南畝*(蜀山人)が活躍し,当時の世相をひにくった川柳も新しい文芸としてもてはやされた。
(2)美術…浮世絵が発達して多色刷りの錦絵が生まれ,喜多川歌麿*の美人画,葛飾北斎*や歌川(安藤)広重*の風景画,東洲斎写楽*の役者絵などがかかれた。
このほか,渡辺崋山の文人画,円山応挙の写生画も有名。
司馬江漢は西洋画の遠近法を取り入れ,油絵や銅板画をえがいている。
(3)庶民の娯楽…歌舞伎が人形浄瑠璃の人気を圧倒し,名優があらわれてりっぱな劇場ができた。
また,伊勢参りなど寺社参詣や西国への巡礼に出かける人がふえ,京都の祇園祭・江戸の神田祭をはじめ,村祭りや盆踊りもさかんになった。
初代将軍:徳川家康 二代将軍:徳川秀忠
三代将軍:徳川家光 四代将軍:徳川家綱
五代将軍:徳川綱吉 六代将軍:徳川家宣
七代将軍:徳川家継 八代将軍:徳川吉宗
九代将軍:徳川家重 十代将軍:徳川家治
十一代将軍:徳川家斉 十二代将軍:徳川家慶
十三代将軍:徳川家定 十四代将軍:徳川家茂
十五代将軍:徳川慶喜
11代将軍 徳 川家斉
綱吉の甥。 オットセイ将軍。
なんと28男27女をもうけた。その他にも御落胤が何人も……
それらの子の片づき場所を確保するため、あちこちの大名家に無理を強いた。
家斉の21女溶姫を押し付けられた加賀藩主前田斉泰は、彼女を迎えるために藩邸に赤い門をわざわざ建立した。
これが後に移築されて東大名物の赤門となった。
文化文政時代到来。江戸期文化の爛熟期。
時代劇に出てくる風俗は大体この時代のもの。
元禄時代のはずの水戸黄門や忠臣蔵モノでも同様。女性の髷の形からして違うんですが……
生きているうちに太政大臣になった武家出身の人物は、彼を含めてたった6人しかいない。
あと5人は、平清盛・足利義満・豊臣秀吉・徳川家康・徳川秀忠。
ちなみに織田信長には明治になってから太政大臣の官位が追贈された。
法度類を変更しないようにと綱吉から遺言されたが、さっさと生類哀れみの令を廃止してしまった。
新井白石を重用したが、白石が経済音痴だったので財政悪化。
没年 1773(安永2)年〜1841(天保12)年 69歳
将軍在位 1787(天明7)年〜1837(天保8)年
父:徳川治斉(一橋家) 母:お富の方 弟:徳川斉敦 徳川斎匡(田安家)
息子:徳川家慶 徳川斉順(紀伊家) 徳川斉明(清水家4代) 徳川斉荘(田安家) 池田斉衆
松平斉民 徳川斉温(尾張家) 松平斉良 徳川斉彊(清水家5代) 松平斉善 蜂須賀斉裕
松平斉省 松平斉宣
業績
・将軍自身が退廃的な生活をおくったため、締め付けが緩くなった町人の間で化政文化が花開く。
・業績ではないが、水戸家以外、多くの徳川・松平一族を自分の息子で固める。
、家斉は50年間も将軍の座に就き、更に4年大御所として絶大な権力をふるい
、大奥に山ほどの女性を侍らせ莫大な経費が発生。さらに多くの子供を産ませたため、多くの持参金を持たせて養子に出したり、嫁にやったりし、大名家の中には、この持参金目当てで家斉から養子を迎えたところもあったほど。それだけ金額としてはでかいわけで、大奥関連の経費は幕府に膨大な負担を強いた。
それでも初期は松平定信を登用し、寛政の改革が行われたが、大奥関連の経費を大幅削減したことから疎んじ、さらに自分の父に大御所の名を与えようとしたところ、定信に「将軍ではないと大御所にはなれない」と猛反対され、一方朝廷でも、同じようなことをしようとした光格天皇に対し反対。プッツンときた家斉は松平定信を解任してしまった。
その後しばらくは松平定信の息のかかった松平信明らが改革路線(といっても、寛政の改革は復古主義・保守的だが)を継続。しかし松平信明が病死すると、側用人だった水野忠成を老中首座に据え、松平定信が禁止した「賄賂」を公然と認め、奨励。必要経費には貨幣を改鋳し、乱発して対応し、もちろんインフレが発生した。
ただし、そんな将軍様の治世でありますから、インフレ問題を除けば庶民への圧迫は少なく、化政文化が花開く(ゴージャスで退廃的との評もあるが)。庶民から見れば、なかなかの将軍様だったかも。実際、次の家慶の時、老中水野忠邦は随分とまあ、風紀規制、贅沢品禁止などで庶民を締め付けましたから・・・。
そんなわけで、幕府改革の面からではダメ将軍だが、見方・視点を変えれば、また評価も変わってくるわけである。
家斉引退の2ヶ月前に発生した、大塩平八郎の乱は、幕府身内からの反乱と言うことで大きな衝撃を与えたが、大御所となった後も家斉とその側近、その代表格、水野忠篤、美濃部茂育(もちなる)、中野清茂らによる退廃は止まらず、「大御所時代」と呼ばれた。
この時、日本にはモリソン号など外国船が多く到来。
いよいよ激動の幕末を迎えるに当たり、家斉は幕府に多大なる借金と弛緩を残しこの世を去った。
69歳。将軍にしては家康、慶喜に継ぐ高齢である。
江戸時代
1787年 天明の打ちこわしが起こる。
田沼意次が失脚。保守派のドン、( 松平定信 ) 老中に。寛政の改革の初め。早速倹約令をだす。
1789年 旗本・御家人の借金帳消しよ、の( 棄損令 )をだ す。
米の備蓄などを定めた( 囲い米の )制をだす。
1790年 職業訓練施設ともいえる( 人足寄場 )を江戸の石川島に設立。
1791年 お金をちゃんと積み立てて災害時などに使おうという( 七分積金 )の制が出される。
1792年 ( 海国兵談 )・「三国通覧図説」の著者、林子平が蟄居を命じられ本は絶版となる。
ロシアの( ラクスマン )が漂流民・大黒屋光太夫を連れて根室に来航。通称を要求するが、幕府はまた今度ねと追い返 す。なお、光太夫はロシアの情報を幕府に報告した後は、幕府に監視された飼い殺しのような状況下におかれる。一般市 民にロシアのことを喋るな、とのこと。
1793年 松平定信、老中を辞任。将軍家斉がお金を使いまくる政治を開始。彼は側室も何十人も持ち、子供の数も55人。この頃か ら特に、大奥の権勢が強まり改革をことごとく阻害し始める。倹約が嫌だから、が彼女たちの理由。
1798年 ( 近藤重蔵 )が千島列島を探検。
1800年 ( 伊能忠敬 )が蝦夷地を探検。
1802年 十返舎一九が( 東海道中膝栗毛 )を著し、ヒットする。
1804年 ロシアの( レザノフ )が漂流民送還のため長崎に来航。同時に通商を求めるが拒絶される。
1805年 関東のならず者を取り締まるため( 関東取締出役 )を設置する。
1808年 間宮林蔵が( 樺太 )を探検。翌年、後の間宮海峡を発見。
( フェートン )号事件。イギリス船が長崎に侵入し、薪水・食料を強要して帰る。長崎奉行は切腹する。
1809年 式亭三馬が「浮世風呂」を著す。
1811年 ( ゴローウニン )事件。ロシアの軍艦艦長( ゴローウニン )を国後島で逮捕。翌年、ロシアが高田屋嘉兵衛(択捉航路を 開いた人) を国後島で逮捕し、その翌年に交換する。
1814年 滝沢馬琴が( 南総里見八犬伝 )の執筆を開始。
1817年 イギリス船が浦賀に来航する。
1821年 伊能忠敬の日本全図が完成。
1822年 大蔵永常が( 農業便利論 )を著す。
1823年 この頃・・藤正宗酒造創立
1825年 異国船打払令、またの名を( 無二念打払令 )がだされる。
1827年 薩摩藩において( 調所広郷 )が藩政改革を始める。
改革内容は、琉球との密貿易、奄美大島特産のサトウキビの専売(領民を相当しごいた)、借金の返済期日を無理矢理に 長期にわたって延期させたことであり、かなり過激。まさに「痛みを伴う改革」。
頼山陽が( 日本外史 )を著す。 源平2氏から徳川に至るまで、武家が政権を握る過程を著述。「史記」を模範とし、尊皇 攘夷運動に影響。
1828年 シーボルト事件。伊能忠敬の師匠の息子で、幕府天文方の( 高橋景保 )がオランダ商館医師のドイツ人シーボルトに日 本地図を譲り 処罰をうけ、シーボルトは国外追放となる。なお、シーボルトといえば長崎で開いた塾( 鳴滝塾 )を覚えてお こう。この塾の門下生が日本の近代医学に少なからず貢献することになる。
1829年 葛飾北斎が( 富嶽三十六景 )を描く。
1830年 水戸藩主徳川斉昭が藩政改革を始めるが、藩内は派閥闘争に明け暮れ幕末まで尾を引く。
1832年 ( 為永春水 )が春色梅子誉美〜しゅんしょくうめごよみ〜を著す。
1833年 歌川広重が( 東海道五十三次 )を描く。海外の画家に大きな衝撃。
1834年 ( 水野忠邦 )が老中となる。41年の大御所家斉の死をもって天保の改革を始める。
1837年 ( 大塩平八郎 )の乱。大坂で元大坂奉行所与力の( 大塩平八郎 )が、貧民を救済しない幕府の態度に対し反乱を起こ す。すぐに鎮圧されるが、幕府内部からの反乱と言うことで衝撃は大きかった。
越後柏崎において国学者の( 生田万 )が( 大塩平八郎 )にならい反乱を起こす。もちろん鎮圧された。
アメリカ商船モリソン号が漂流民を届けに来たところを砲撃される。
1838年 中山みきが( 天理 )教を創始する。
高野長英が( 戊戌夢物語 )、渡辺崋山が( 慎機論 )を著し、密かにモリソン号に対する幕府の打ち払いの行動など幕 政を批判。
ところがこれがばれてしまい処罰。崋山は自殺。長英は牢に入った後、脱獄し各地を転々とし大名の保護を受けるが、江戸 に戻ったところを見つかり、自殺を図り獄中で死亡。これら、蘭学者に対する弾圧を( 蛮社の獄 )という。
1841年 天保の改革スタート。株仲間が解散させられる。
1842年 天保の薪水給与令。打ち払い令を緩和し、外国船に薪水食料を与えることで穏便に事を済ませることにした。
1843年 人返しの法、上知令が出る。基本なので内容は略。これで忠邦は自滅し辞任。かわりに福山藩主( 阿部正弘 )が老中 首座に。藩主には珍しい賢者だったが残念なことにペリー来航のごたごたの中で病死。
1846年 アメリカの( ビットル )が浦賀に来航し、通商を要求。
1850年 ( 佐賀 )藩で、日本初の反射炉が建設される。工業化の第一歩。
1851年 高知藩の人で漂流民となった中浜(ジョン)万次郎がアメリカより帰国。
( 本木昌造 )が鉛活字を鋳造。活版印刷を始める。
薩摩藩で藩主の( 島津斉彬 )が改革を始め、製錬所や反射炉を造る。
1853年 ペリーが浦賀に来航。開国しなさいと勧告して帰る。
1854年 ペリーが再び来航。返事はいかにとせまり、仲良くしましょうという日米和親条約(別名:神奈川条約 )が結ばれる。各列 強もこれにならう。
1855年 蛮書和解御用掛を洋学所とする。これは56年に( 蛮書調所 )に、62年に洋書調所に、63年に( 開成所 )と組織が変 更する。入試でよく出るから注意。
1856年 アメリカ総領事として( ハリス )が着任。通称を要求する。
1858年 老中首座堀田正睦〜ほったまさよし〜が朝廷に「如何しましょう」と、お伺いを立てたところ、外国と通商などもってのほ か!と拒絶され、幕府の権威を失墜させる。
井伊直弼が大老となり、アメリカと( 日米修好通商条約 )を結ぶ。
( 安政の大獄 )で、橋本左内、頼三樹三郎<頼山陽の息子>、吉田松陰らが死刑、徳川斉昭らが謹慎となる。
1860年 条約批准のため、新見正興を正使に勝海舟らがアメリカに行く。
桜田門外の変。井伊直弼、水戸藩浪士らに暗殺される。
1861年 孝明天皇の妹和宮が将軍徳川家茂に嫁ぐ<公武合体>。
1862年 ( 坂下門外 )の変。老中安藤信正が、尊王攘夷派の志士に襲われ傷を負うが逃げ切る。しかし「逃げるとは武士の恥」と 弾劾され老中を罷免される。
1863年 ( 長州 )藩が外国船を( 下関 )で砲撃。
高杉晋作が( 奇兵 )隊を設立。
( 薩英 )戦争。生麦事件の報復にイギリスが鹿児島を砲撃。薩摩藩の意外に手強い抵抗に、イギリスが少し考えを改 め、薩摩藩の支援をおこなうことにした。
( 八月十八日 )の政変。公武合体派の公家達が、三条実美ら長州藩寄りの尊王攘夷派公家を追放。これを七卿落ちと もいう。
1864年 フランスの公使として( ロッシュ )氏が着任。後に徳川慶喜の顧問として全面支援を行う。
( 池田屋 )事件。尊皇攘夷派志士を取り締まる、新撰組が志士達を襲い、大打撃を与える。
( 禁門 )の変。長州藩士達が上京し、会津・薩摩藩の連合軍に敗れ去る。蛤御門の変とも。
幕府、第一次長州征伐を開始。
下関砲撃事件の報復として、イギリスなどの四国連合艦隊が下関を砲撃。長州藩、幕府と四国に謝罪をする。
1866年 坂本龍馬らの必死の仲介で薩摩藩と長州藩が、秘密裏に軍事同盟を結ぶ。これを( 薩長同盟 )という。
1866年 幕府、第二次長州征討を開始。しかし、将軍徳川家茂の死去と、小倉藩が長州藩に敗北したためおじけづいた新将軍・ 徳川慶喜が中止させる。 しかし、幕府権威は失墜。
1867年 前土佐藩主・山内豊信が、幕府に朝廷に政権を返してはいかがという( 大政奉還 )を建白。慶喜、これを了承すし、朝 廷に奏上する。 ところが、同日に薩長に倒幕の密勅がくだる。
( 王政復古の大号令 )・・・天皇中心の新政府が樹立が宣言される。同時に小御所会議が開かれ、慶喜に対し、官位辞 退と領地返上を命じる。