去年今年 貫く棒の 如きもの
2008年1月1日謹賀新年今年もよろしくお願いいたします。
やはり神の国なんであろうか。
急速なる冬将軍の到来が富士山の積雪の霊峰をテレビが映し出してくれている。
九州連山をなす高千穂米良霧島の山々も、めづらしく冠雪を頂き、新年を祝ってるようである。
ただ国のトップにして年末ギリギリの訪中をして越年国会なんのそのと区切り悪い
・・そんなの関係ネ〜ェ〜状態ゆえ下々もどうにもスッキリしない。
終わってるのか続いてるのかわからぬここのところになかった珍しき状況。
去年今年 貫く棒の 如きもの
虚子もうまくいったものである。
よって心洗われてのあらためてしんねんをいわう新鮮さに今年はかける。
ひどい状況である。原油の値上がりで石油泥棒さえ出てる始末の新年である。
原油は1年で2倍になり、経済指標の金も上昇。
穀物も上昇し水産物供給も懸念されている。
生活基盤がガタガタで政治の出番を待っているが福田政治は件の如し。
工業立国のわが国に対してパソコン下落が他方で生じている。
3年ぶり1万件の倒産
銀行のみがが平時型の検査と危機対応から脱出した。
初頭から外交はもたついている。
ケニアタンザニア外遊計画の高村外相は早速の計画変更。
ケニアの政情不安からである。
年越しはこの国にあわないほどに凶暴化したルールの競技のダイママイトを
最初の18歳以下から最後まで見た。
外国人選手と日本人の構図ははずされひたすら興味ある対決に絞られてる。
草食民族も肉食民族に負けぬ凶暴性をマスコミから煽られ洗脳化されている。
文化的行事のみが健在なり。
紙の国立民族博物館は千葉佐倉市にある。
1月16日から「紙の博物展」を企画するようだ。
渋沢敬三日本実業史博物館から移設展示
収集品の風よけ、湿気防止、関東大震災後の二次災害を避けるための紙製テント、紙布器
秘術とされる紙スキ技法「造紙諸入用帖」「紙の沿革史」も展示される。
産地や営業のありかたまであったそのままに共感を得るものがあろう。
2月11日までの期間である。
紙の国と評された石造りの国からの明治期から出発するのがいずれにつけ必要な時代かもしれない。
50周年の巨人軍の宮崎キャンプもなんかいやらしい。
最多勝のグライシンガー、打点王のラミレスさらにクルーン
阪神は広島の新井を獲った。シーツにしてもしかり。
横浜のウッズは中日
ドンたる良識人のコミッショナーがめをつぶっている。
強力選手を々チームにあつめるとコメントをした鈴木竜ニみたいな裁き人がいない。
不均衡なバランスに待ったがかからない。
07年の墓銘碑を観ていると実に多くの人の感化で自己があるのを考えさせられる。
○○歳かを過ぎたら自分の顔に自信を責任をもてといわれる所以だ。
社会性の中での自己たる生活環境に否応にもなじまされている証左である。
薄っぺらな経験しかない青二才の評論に一喜一優してるのがもどかしい。
知識の羅列には感じ入るが所詮薄っぺらな未経験から来るデマゴギーのたぐいに過ぎない。
鋭い文章力と常識はずれの人様のブログさえコピーで保存してる異常さを気づかず読んでしまうブログ読者を幻惑させる。
その摩耶化しの手法でひきつけようが多面性の深層心理の人間は描ききれない。
新聞人が似たようなことを常套手段のように使い社会を混乱させる。
そのまんま効果の宮崎の現象たる将来のあげ底悲劇みたいなもの。
宮崎の真実は夜の経済社会たるニシタチを毎や徘徊すればシン吟、喘ぎが蔓延している。
東京一極集中の好景気に過ぎない。
どの世界もそれは同じである。
足でブログを書くべきである。
自分の首には自分の頭をのせるブログ人とありたい。
自戒とせねば成らぬ。
漱石の娘に長女筆子がいる。
半藤末利子はその筆子の娘で漱石の孫娘になる。
父は漱石の弟子松岡譲である。
昭和史研究の第一人者半藤一利の妻である。
昭和天皇に関する侍従の日記が数々と公刊されご多忙を極めた一年であったろう。
10月17日朝日新聞に「漱石さんの息つかい」なる記事が掲載された。
何時もの如く薄っぺらな実証に欠く誤謬の新聞記事だが、市井の人は新聞記事を信じる嫌いがある。
新聞記事の誤謬、薄っぺら記事が社会的正義たる世論形成の一翼を担ってしまう。
社会の公器たる立場からして新聞人のあり方が問われtる問題でもある。
それも古書店主から作家になった無頼の博学作家出久根達郎の感想付きゆえ
信憑性が高められる仕掛けが用意されている。
江戸東京博物館の漱石展での漱石の愛用した展示物である。
赤色をふんだんに使った極彩色の長襦袢のカラー写真入り記事。
「漱石が部屋着にしていた女物襦袢」と記されている。
漱石夫人鏡子は弟子の松岡譲に形見としてキモノやはかまと一緒に件の襦袢をくれた。
筆子は平成元年に逝った。
光岡明熊本近代文学館長に展示をしてもらうことで寄付をした。
筆子は
「見てごらんなさい。これはおじちゃまの長襦袢よおもしろいでしょう」
広げて見せた。
女物ともガウン代わりに部屋着として着用したとは聞いたことはないという。
漱石は羽織の奥などにおしゃれを楽しんだという。
女性用、部屋着との確証検証なき報道後の訂正関係者への謝罪は出ない。
詳しくは文芸春秋2月号86ページにある漱石の長襦袢
を一読をお勧めする。
阿川弘之の巻頭言に漱石の弟子たる内田百?と高峰秀子のことがあるのがなんたるタイミングであろう。
生命の宿命は連続性があるようだ。
その死が特攻で散っていこうと同じである。
世田谷観音の碑に祭られているいわれから特攻隊に女性はいたかともある。
戦後4日後、谷藤徹夫少尉の新妻を乗せての満州大虎山飛行場から国破れて山河無しとソ連戦車軍に特攻した。
国を思う特攻という殉職でいまは過激派の自虐テロとか呼ぶ。
けっしてイスラムの教えからの行動とは言わない。
オーストリア大統領が小選挙区で自ら落選し政権変更での権力移動が報道されず
孤立化したブッシュを庇ってるマスコミ界と似たり寄ったり。支配者の欺瞞はきりがない。
朝鮮総督府は千年持つといわれたが95年8月15日70年で金泳三大統領の手で破壊された。
岐阜県大垣市の矢橋大理石会社に宮塚山梨大教授の手でその一部が持ち込まれた。
間違いなくうちが施工したとの筆跡がある。
島尾敏雄の妻ミホ(87)3・25逝く。
あの「死の棘」のモデル。
これを読み思い当たることを書いてみた。
盗作などで歴史小説が読めなくなってた池宮影一郎(83)も5・6逝っていた。
他にも壮大なるスケールで権力横暴を暴いた小説のシドニーシェルダン(89)1・30
はノンヒックションの思い出ひきつけられた愛読者の一人。
太平洋戦争体験「裸者と死者」ノーマンメイラー(64)11・10
イングマル・ベルイマン(89)7・30はブログで触れた・
鉄道員監督カルロ・ボンティ(94)・1・10
ミケランジオ・アントニオーニ(94)・7・30
ミュージカル王様と私のビュルンナーの相手方デボラ・カー(86)10・16
ムスチフラフ・ロストロボービッチ(80)4・27
黒川紀章(73)10・12
NHKで初恋の人がロシアにいて会いに行く黒川紀章。
そのときもう一人の主役がロストロボービッチであった。
それがナント!同じ年になくなった訳である。
高千穂セン存続にかけた宮崎共生新党設立地方区たる宮崎に候補者を擁立し
戦った先の参議院選挙の記憶が蘇る。
地元宮日紙に12月3日から連載で3回も新田原台地の水利費の不正蓄財記事の
薄っぺらな実証性に欠く記事のたぐいである。
或いは数年前の疑惑をスッパ抜くなどとノタマウ一方的突然のベタ記事みたいなもの。
監督庁たる県当局さえ知っていて見逃してきた水利費の不正経理は
背任行為の刑法犯で警察沙汰になるべき筋合いのもの。
事はそれもそれだけに終わらない。
一大殺人施設にさえ成り代わる危険なる水の事なのである。
12月30日のライオンズクラブのメンバーと痛飲したときの行事の感激が語られた。
新田原台地内にある幸楽園、うからノ里の社会的弱者施設でのもちつき。
何百人が喜んでくれ焼酎より一杯の水の美味さが語られた。
池の水に過ぎない畑地に潅水するだけの目的の水を給食施設に使ってる犯罪性が当然ない。
実に危険極まりない管理されてない飲料水利用の水である。
決して表に出ては成らぬ代物で逮捕者が無いと治まらないハズの社会性を帯びている。
その重大なる背景さえ無視して軽率に公表するといかようになるか。
報道者の姿勢の軽率な行動の可笑しさが記事になり物議を醸しても可笑しくない類のもの。
なにも官製捜査で社会的に抹消しようとの国家権力は佐藤優元外務省職員だけが負ってるものではない。
あらゆるとこに捜査当局の官の標的がある。
実証無しの裏のない記事がセンセンショーナルな一面記事と成れば田舎の宮崎では
捜査当局が動き、官製発を発信源とする正義をおび、田舎県民ににわか正義製の話題を提供する。
地方を揺るがした事件の当事者はマスコミから一秒もの取材を受けず
一躍マスコミの寵児となり、造られた官製記事が県民の自虐性の官たたきで受け入れられた。
どこに正義が貫かれたというのか。
法の裁きさえ真実は何一つ裁きの遡上に載らぬ。
青法協の左崩れ弁護士さえ結果、検察裁判所との三すくみに潰えた
凶暴なる墓力性を帯びた本性を密室の自分の事務所など個別の場で表し幾多の暴力行為たる書類を投げつけた。
目立ちがりやで大阪に立候補してる橋本みたいな本性をマスコミが追っかけることで豹変する。
似た事例がスナック店主の約束反故にある。
正月に全国放送されるという舞い上がり現象は笑止。
川島なお美が来店した12月のこと。
その後の店長の威高い態度の類である。
どうにもマスコミにおだてられると錯覚が走る習性のある人間の本性があるようである。
新聞に出てる出てる・・
マスコミはつねにきになるようである。
年が改まったからどうにかなるというものでもない。
ひたすらの自己信念を貫くことである。
今年もブログの皆様にはよろしくお願いいたします。
やはり神の国なんであろうか。
急速なる冬将軍の到来が富士山の積雪の霊峰をテレビが映し出してくれている。
九州連山をなす高千穂米良霧島の山々も、めづらしく冠雪を頂き、新年を祝ってるようである。
ただ国のトップにして年末ギリギリの訪中をして越年国会なんのそのと区切り悪い
・・そんなの関係ネ〜ェ〜状態ゆえ下々もどうにもスッキリしない。
終わってるのか続いてるのかわからぬここのところになかった珍しき状況。
去年今年 貫く棒の 如きもの
虚子もうまくいったものである。
よって心洗われてのあらためてしんねんをいわう新鮮さに今年はかける。
ひどい状況である。原油の値上がりで石油泥棒さえ出てる始末の新年である。
原油は1年で2倍になり、経済指標の金も上昇。
穀物も上昇し水産物供給も懸念されている。
生活基盤がガタガタで政治の出番を待っているが福田政治は件の如し。
工業立国のわが国に対してパソコン下落が他方で生じている。
3年ぶり1万件の倒産
銀行のみがが平時型の検査と危機対応から脱出した。
初頭から外交はもたついている。
ケニアタンザニア外遊計画の高村外相は早速の計画変更。
ケニアの政情不安からである。
年越しはこの国にあわないほどに凶暴化したルールの競技のダイママイトを
最初の18歳以下から最後まで見た。
外国人選手と日本人の構図ははずされひたすら興味ある対決に絞られてる。
草食民族も肉食民族に負けぬ凶暴性をマスコミから煽られ洗脳化されている。
文化的行事のみが健在なり。
紙の国立民族博物館は千葉佐倉市にある。
1月16日から「紙の博物展」を企画するようだ。
渋沢敬三日本実業史博物館から移設展示
収集品の風よけ、湿気防止、関東大震災後の二次災害を避けるための紙製テント、紙布器
秘術とされる紙スキ技法「造紙諸入用帖」「紙の沿革史」も展示される。
産地や営業のありかたまであったそのままに共感を得るものがあろう。
2月11日までの期間である。
紙の国と評された石造りの国からの明治期から出発するのがいずれにつけ必要な時代かもしれない。
50周年の巨人軍の宮崎キャンプもなんかいやらしい。
最多勝のグライシンガー、打点王のラミレスさらにクルーン
阪神は広島の新井を獲った。シーツにしてもしかり。
横浜のウッズは中日
ドンたる良識人のコミッショナーがめをつぶっている。
強力選手を々チームにあつめるとコメントをした鈴木竜ニみたいな裁き人がいない。
不均衡なバランスに待ったがかからない。
07年の墓銘碑を観ていると実に多くの人の感化で自己があるのを考えさせられる。
○○歳かを過ぎたら自分の顔に自信を責任をもてといわれる所以だ。
社会性の中での自己たる生活環境に否応にもなじまされている証左である。
薄っぺらな経験しかない青二才の評論に一喜一優してるのがもどかしい。
知識の羅列には感じ入るが所詮薄っぺらな未経験から来るデマゴギーのたぐいに過ぎない。
鋭い文章力と常識はずれの人様のブログさえコピーで保存してる異常さを気づかず読んでしまうブログ読者を幻惑させる。
その摩耶化しの手法でひきつけようが多面性の深層心理の人間は描ききれない。
新聞人が似たようなことを常套手段のように使い社会を混乱させる。
そのまんま効果の宮崎の現象たる将来のあげ底悲劇みたいなもの。
宮崎の真実は夜の経済社会たるニシタチを毎や徘徊すればシン吟、喘ぎが蔓延している。
東京一極集中の好景気に過ぎない。
どの世界もそれは同じである。
足でブログを書くべきである。
自分の首には自分の頭をのせるブログ人とありたい。
自戒とせねば成らぬ。
漱石の娘に長女筆子がいる。
半藤末利子はその筆子の娘で漱石の孫娘になる。
父は漱石の弟子松岡譲である。
昭和史研究の第一人者半藤一利の妻である。
昭和天皇に関する侍従の日記が数々と公刊されご多忙を極めた一年であったろう。
10月17日朝日新聞に「漱石さんの息つかい」なる記事が掲載された。
何時もの如く薄っぺらな実証に欠く誤謬の新聞記事だが、市井の人は新聞記事を信じる嫌いがある。
新聞記事の誤謬、薄っぺら記事が社会的正義たる世論形成の一翼を担ってしまう。
社会の公器たる立場からして新聞人のあり方が問われtる問題でもある。
それも古書店主から作家になった無頼の博学作家出久根達郎の感想付きゆえ
信憑性が高められる仕掛けが用意されている。
江戸東京博物館の漱石展での漱石の愛用した展示物である。
赤色をふんだんに使った極彩色の長襦袢のカラー写真入り記事。
「漱石が部屋着にしていた女物襦袢」と記されている。
漱石夫人鏡子は弟子の松岡譲に形見としてキモノやはかまと一緒に件の襦袢をくれた。
筆子は平成元年に逝った。
光岡明熊本近代文学館長に展示をしてもらうことで寄付をした。
筆子は
「見てごらんなさい。これはおじちゃまの長襦袢よおもしろいでしょう」
広げて見せた。
女物ともガウン代わりに部屋着として着用したとは聞いたことはないという。
漱石は羽織の奥などにおしゃれを楽しんだという。
女性用、部屋着との確証検証なき報道後の訂正関係者への謝罪は出ない。
詳しくは文芸春秋2月号86ページにある漱石の長襦袢
を一読をお勧めする。
阿川弘之の巻頭言に漱石の弟子たる内田百?と高峰秀子のことがあるのがなんたるタイミングであろう。
生命の宿命は連続性があるようだ。
その死が特攻で散っていこうと同じである。
世田谷観音の碑に祭られているいわれから特攻隊に女性はいたかともある。
戦後4日後、谷藤徹夫少尉の新妻を乗せての満州大虎山飛行場から国破れて山河無しとソ連戦車軍に特攻した。
国を思う特攻という殉職でいまは過激派の自虐テロとか呼ぶ。
けっしてイスラムの教えからの行動とは言わない。
オーストリア大統領が小選挙区で自ら落選し政権変更での権力移動が報道されず
孤立化したブッシュを庇ってるマスコミ界と似たり寄ったり。支配者の欺瞞はきりがない。
朝鮮総督府は千年持つといわれたが95年8月15日70年で金泳三大統領の手で破壊された。
岐阜県大垣市の矢橋大理石会社に宮塚山梨大教授の手でその一部が持ち込まれた。
間違いなくうちが施工したとの筆跡がある。
島尾敏雄の妻ミホ(87)3・25逝く。
あの「死の棘」のモデル。
これを読み思い当たることを書いてみた。
盗作などで歴史小説が読めなくなってた池宮影一郎(83)も5・6逝っていた。
他にも壮大なるスケールで権力横暴を暴いた小説のシドニーシェルダン(89)1・30
はノンヒックションの思い出ひきつけられた愛読者の一人。
太平洋戦争体験「裸者と死者」ノーマンメイラー(64)11・10
イングマル・ベルイマン(89)7・30はブログで触れた・
鉄道員監督カルロ・ボンティ(94)・1・10
ミケランジオ・アントニオーニ(94)・7・30
ミュージカル王様と私のビュルンナーの相手方デボラ・カー(86)10・16
ムスチフラフ・ロストロボービッチ(80)4・27
黒川紀章(73)10・12
NHKで初恋の人がロシアにいて会いに行く黒川紀章。
そのときもう一人の主役がロストロボービッチであった。
それがナント!同じ年になくなった訳である。
高千穂セン存続にかけた宮崎共生新党設立地方区たる宮崎に候補者を擁立し
戦った先の参議院選挙の記憶が蘇る。
地元宮日紙に12月3日から連載で3回も新田原台地の水利費の不正蓄財記事の
薄っぺらな実証性に欠く記事のたぐいである。
或いは数年前の疑惑をスッパ抜くなどとノタマウ一方的突然のベタ記事みたいなもの。
監督庁たる県当局さえ知っていて見逃してきた水利費の不正経理は
背任行為の刑法犯で警察沙汰になるべき筋合いのもの。
事はそれもそれだけに終わらない。
一大殺人施設にさえ成り代わる危険なる水の事なのである。
12月30日のライオンズクラブのメンバーと痛飲したときの行事の感激が語られた。
新田原台地内にある幸楽園、うからノ里の社会的弱者施設でのもちつき。
何百人が喜んでくれ焼酎より一杯の水の美味さが語られた。
池の水に過ぎない畑地に潅水するだけの目的の水を給食施設に使ってる犯罪性が当然ない。
実に危険極まりない管理されてない飲料水利用の水である。
決して表に出ては成らぬ代物で逮捕者が無いと治まらないハズの社会性を帯びている。
その重大なる背景さえ無視して軽率に公表するといかようになるか。
報道者の姿勢の軽率な行動の可笑しさが記事になり物議を醸しても可笑しくない類のもの。
なにも官製捜査で社会的に抹消しようとの国家権力は佐藤優元外務省職員だけが負ってるものではない。
あらゆるとこに捜査当局の官の標的がある。
実証無しの裏のない記事がセンセンショーナルな一面記事と成れば田舎の宮崎では
捜査当局が動き、官製発を発信源とする正義をおび、田舎県民ににわか正義製の話題を提供する。
地方を揺るがした事件の当事者はマスコミから一秒もの取材を受けず
一躍マスコミの寵児となり、造られた官製記事が県民の自虐性の官たたきで受け入れられた。
どこに正義が貫かれたというのか。
法の裁きさえ真実は何一つ裁きの遡上に載らぬ。
青法協の左崩れ弁護士さえ結果、検察裁判所との三すくみに潰えた
凶暴なる墓力性を帯びた本性を密室の自分の事務所など個別の場で表し幾多の暴力行為たる書類を投げつけた。
目立ちがりやで大阪に立候補してる橋本みたいな本性をマスコミが追っかけることで豹変する。
似た事例がスナック店主の約束反故にある。
正月に全国放送されるという舞い上がり現象は笑止。
川島なお美が来店した12月のこと。
その後の店長の威高い態度の類である。
どうにもマスコミにおだてられると錯覚が走る習性のある人間の本性があるようである。
新聞に出てる出てる・・
マスコミはつねにきになるようである。
年が改まったからどうにかなるというものでもない。
ひたすらの自己信念を貫くことである。
今年もブログの皆様にはよろしくお願いいたします。