事実は小説よりも奇異なり
「かくも長き不在」でショックは筆舌に尽くしがたし。
涙も枯れよう。
42年作品の「カサブランカ」のハンフリー・ボガート、イングリッド・バーグマンでなく、サムを演じたドゥーリイ・ウィルソンの爪弾くピアノの主題曲「As Time Goes By」=時の過ぎ行くままにに聞き入りたい。
かくも長き不在(60)は スイスの人 ・アンリ・コルピ 監督(1921年7月15日 - 2006年1月14日)の作品。
アリダ・バリ(Alida Valli, 1921年3月21日 - 2006年4月22日)はイタリアのイストリア生まれ
戦時中はファシストムッソリーニ政権を嫌って出演を断っ
ふたつの映画が記憶に残る。
49年の「第三の男」でオーストリア・ウィーン中央墓地の並木道を歩く、あの有名なラストシーン。
そしてこの作品。
背景のパリの街並みは、復興を遂げた建物と戦争の爪痕残る被弾を受け焼け落ちた建物
女主人の パリのカフェー。
16年前にゲシュタポにつれさられた生き別れ亭主の記憶とそっくりの男が現れる。
男(ジョルジュ・ウイルソン)は浮浪者であり記憶を失っていた。
記憶を戻そうとダンスを誘う。
一緒に踊りながら、一瞬女は鏡の自分と視線をあわせ、過ぎ去った自分に驚く
パリの人々の心の傷痕も二人のダンスシーンの曲はシャンソン。
男の記憶は急に頭に痛みを覚え人影の記憶のない草原のみを思い出す。
PTSDに悩んでるゆえ人事ではないリアリティ感。
食事や踊っても、男はかすかな表情を浮かべるだけ。
長く短い時間が過ぎた。
「来てくれてありがとう」
記憶がもどらぬまま
男がカフェを出ると、
これを知った近所の人たちと共に
、亭主の名前を大声で呼ぶ。
その時、一瞬記憶がよみがえったのだろうか、
声に男は身をすくめた・・・、
映画が作られた1961年は昭和36年。
日本のラジオは行方知れずの「尋ね人」を捜す名前を単調に読み上げていた時期でも有った。
「かくも長き不在」は戦争の残した傷を静かに訴える作品
宮崎の生んだ黒木和雄監督も悲惨さを閉じ込めて戦争を描いた手法に似ている。
女主人が過ごしてきた「不在」の日々がどうにも辛すぎる。
もし事件がなければ、女主人はまったく違った人生を生きていたろう。
誰にも時間と日々の差は有れど「不在」の時間はある。
生きてる現実さえ、自分がいるようにしてるが、そう思っているだけでただ馬齢を重ねてるに過ぎないやも知れない。
繰り返される日々は「不在」の時間と背中合わせの積み上げではなかったのか。。
リメイクではないのか。
1970年公開の『ひまわり』のストリーとだぶってくる。、
マルチェロ・マストロヤンニ、1924年9月28日-1996年12月19日)
とソフィア・ローレン(1934年9月20日〜)が主演した反戦映画の傑作。
共に20世紀のイタリアを代表する映画俳優。
監督はイタリアンリアリズムのネオレアリズモの一翼を担ったヴィットリオ・デ・シーカ。
音楽は「ティファニーで朝食を」や「ピンクパンサー」ヘンリー・マンシーニで悲しき作品が救われた。
戦争によって引き裂かれた夫婦の行く末を悲哀たっぷりに描いた作品
マルチェロ・マストロヤンニは 「男と女」(1957年)、 ルキノ・ヴィスコンティ監督の「白夜」(1957年)
フェデリコ・フェリーニ監督の「甘い生活」「8 1/2」(1963年)や「女の都」(1980年)
典型的なイタリア美女を演じている女優、ソフィア・ローレンとの共演も多い
二つの映画は小津でもクロサワでもない。
鬼才、今村 昌平1926年9月15日 - 2006年5月30日)
1951年、早稲田を出て初の助監督公募で2000人中8人という難関を突破して松竹大船撮影所に入社。
小津安二郎の助監督。、
1954年に日活に移籍する。
「松竹では束縛だらけだったが、日活はまったくなかったから驚いた」
1957年の名作・川島雄三監督『幕末太陽伝』や浦山桐郎監督の『キューポラのある街』では脚本家
友人にフランキー堺や小沢昭一、加藤武。
柳田民俗学に誘われ『神々の深き欲望』に取り組む。
過酷な撮影現場に耐え切れず脱走を試みた 嵐寛寿郎のエピソードは有名。
1979年、佐木隆三の『復讐するは我にあり』
『ええじゃないか』(1981年)は興業的に失敗
起死回生の『楢山節考』(1983年)と『うなぎ』(1997年)で、日本人では初めてカンヌ国際映画祭で2度グランプリ(現・パルム・ドール)を受賞
同じ功績ではアメリカのフランシス・フォード・コッポラ監督など5名がいる。
1975年横浜放送映画専門学院(現・日本映画学校)は日本初の映画学校を開校し、校長をつとめ、
三池崇史・細野辰興・金秀吉・佐々部清・本広克行・李相日などの映画監督、
鄭義信などの脚本家・芥川賞作家阿部和重、
亦、タレントのウッチャン・ナンチャン、俳優の長谷川初範、竜大介などの人材を輩出した。
カンヌ映画祭の歴代パルムドール受賞者のパーティーの場面。
存在の確かな手触りを追求する映画作家の執念が伝わる
老監督アンリ・コルピの孤独な姿と自らの生き様を重ね合わせ、映画への思いを新たにする。
ヤッパリそうだったのだ。
なんか似ている映画の手法だと思った
直感はすばらしい。
二人には接点があったのだ。
「映画は狂気の旅である」日本経済新聞 今村昌平著
奇妙なる一致点をみて驚いた。
驚き・・否!ショックの多き日。
アンリ・コルピ 監督(1921年7月15日 - 2006年1月14日)
アリダ・バリ (1921年3月21日 - 2006年4月22日)
今村 昌平 (1926年9月15日 - 2006年5月30日)
TELほど時間のかかるものはない。
11月3日に解って以来で一体何日たっていよう。
「和をもって貴し」との民族性をタダタダ恨む慟哭の地底からの雄たけび!
ウ〜ゥ〜リィヨォーオ!
訪れていただいた
皆々様にお願いいたします。
全員の方々の
順位復活のクリック
ぜひ お願いいたします
↓ ↓ ↓
http://blog.with2.net/link.php?62076
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「かくも長き不在」でショックは筆舌に尽くしがたし。
涙も枯れよう。
42年作品の「カサブランカ」のハンフリー・ボガート、イングリッド・バーグマンでなく、サムを演じたドゥーリイ・ウィルソンの爪弾くピアノの主題曲「As Time Goes By」=時の過ぎ行くままにに聞き入りたい。
かくも長き不在(60)は スイスの人 ・アンリ・コルピ 監督(1921年7月15日 - 2006年1月14日)の作品。
アリダ・バリ(Alida Valli, 1921年3月21日 - 2006年4月22日)はイタリアのイストリア生まれ
戦時中はファシストムッソリーニ政権を嫌って出演を断っ
ふたつの映画が記憶に残る。
49年の「第三の男」でオーストリア・ウィーン中央墓地の並木道を歩く、あの有名なラストシーン。
そしてこの作品。
背景のパリの街並みは、復興を遂げた建物と戦争の爪痕残る被弾を受け焼け落ちた建物
女主人の パリのカフェー。
16年前にゲシュタポにつれさられた生き別れ亭主の記憶とそっくりの男が現れる。
男(ジョルジュ・ウイルソン)は浮浪者であり記憶を失っていた。
記憶を戻そうとダンスを誘う。
一緒に踊りながら、一瞬女は鏡の自分と視線をあわせ、過ぎ去った自分に驚く
パリの人々の心の傷痕も二人のダンスシーンの曲はシャンソン。
男の記憶は急に頭に痛みを覚え人影の記憶のない草原のみを思い出す。
PTSDに悩んでるゆえ人事ではないリアリティ感。
食事や踊っても、男はかすかな表情を浮かべるだけ。
長く短い時間が過ぎた。
「来てくれてありがとう」
記憶がもどらぬまま
男がカフェを出ると、
これを知った近所の人たちと共に
、亭主の名前を大声で呼ぶ。
その時、一瞬記憶がよみがえったのだろうか、
声に男は身をすくめた・・・、
映画が作られた1961年は昭和36年。
日本のラジオは行方知れずの「尋ね人」を捜す名前を単調に読み上げていた時期でも有った。
「かくも長き不在」は戦争の残した傷を静かに訴える作品
宮崎の生んだ黒木和雄監督も悲惨さを閉じ込めて戦争を描いた手法に似ている。
女主人が過ごしてきた「不在」の日々がどうにも辛すぎる。
もし事件がなければ、女主人はまったく違った人生を生きていたろう。
誰にも時間と日々の差は有れど「不在」の時間はある。
生きてる現実さえ、自分がいるようにしてるが、そう思っているだけでただ馬齢を重ねてるに過ぎないやも知れない。
繰り返される日々は「不在」の時間と背中合わせの積み上げではなかったのか。。
リメイクではないのか。
1970年公開の『ひまわり』のストリーとだぶってくる。、
マルチェロ・マストロヤンニ、1924年9月28日-1996年12月19日)
とソフィア・ローレン(1934年9月20日〜)が主演した反戦映画の傑作。
共に20世紀のイタリアを代表する映画俳優。
監督はイタリアンリアリズムのネオレアリズモの一翼を担ったヴィットリオ・デ・シーカ。
音楽は「ティファニーで朝食を」や「ピンクパンサー」ヘンリー・マンシーニで悲しき作品が救われた。
戦争によって引き裂かれた夫婦の行く末を悲哀たっぷりに描いた作品
マルチェロ・マストロヤンニは 「男と女」(1957年)、 ルキノ・ヴィスコンティ監督の「白夜」(1957年)
フェデリコ・フェリーニ監督の「甘い生活」「8 1/2」(1963年)や「女の都」(1980年)
典型的なイタリア美女を演じている女優、ソフィア・ローレンとの共演も多い
二つの映画は小津でもクロサワでもない。
鬼才、今村 昌平1926年9月15日 - 2006年5月30日)
1951年、早稲田を出て初の助監督公募で2000人中8人という難関を突破して松竹大船撮影所に入社。
小津安二郎の助監督。、
1954年に日活に移籍する。
「松竹では束縛だらけだったが、日活はまったくなかったから驚いた」
1957年の名作・川島雄三監督『幕末太陽伝』や浦山桐郎監督の『キューポラのある街』では脚本家
友人にフランキー堺や小沢昭一、加藤武。
柳田民俗学に誘われ『神々の深き欲望』に取り組む。
過酷な撮影現場に耐え切れず脱走を試みた 嵐寛寿郎のエピソードは有名。
1979年、佐木隆三の『復讐するは我にあり』
『ええじゃないか』(1981年)は興業的に失敗
起死回生の『楢山節考』(1983年)と『うなぎ』(1997年)で、日本人では初めてカンヌ国際映画祭で2度グランプリ(現・パルム・ドール)を受賞
同じ功績ではアメリカのフランシス・フォード・コッポラ監督など5名がいる。
1975年横浜放送映画専門学院(現・日本映画学校)は日本初の映画学校を開校し、校長をつとめ、
三池崇史・細野辰興・金秀吉・佐々部清・本広克行・李相日などの映画監督、
鄭義信などの脚本家・芥川賞作家阿部和重、
亦、タレントのウッチャン・ナンチャン、俳優の長谷川初範、竜大介などの人材を輩出した。
カンヌ映画祭の歴代パルムドール受賞者のパーティーの場面。
存在の確かな手触りを追求する映画作家の執念が伝わる
老監督アンリ・コルピの孤独な姿と自らの生き様を重ね合わせ、映画への思いを新たにする。
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奇妙なる一致点をみて驚いた。
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アンリ・コルピ 監督(1921年7月15日 - 2006年1月14日)
アリダ・バリ (1921年3月21日 - 2006年4月22日)
今村 昌平 (1926年9月15日 - 2006年5月30日)
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ガストでの打ち合わせのおりに、見渡せば、ネクタイにカッター・シャツ一枚。
上着は熱く辛い異常なる暑さが続いている。
生死を賭けた手術に立ち会いつつの二股で大変である。
集中できねば、いい結果にはならない。
メンタルなものの第一はなんたってゴルフ。
ドライバーで250M飛ばそうが、パターを4〜5もヤッチャ〜ダメ。
所詮一打は一打。学ぶべきものがある。
内外のプロ84選手が参加。
熱戦のダンロップフェニックス・トーナメント(
6907ヤード=パー70、賞金総額2億円、優勝4000万円)が16日開幕した。
1位は片山晋呉7バーディー、2ボギーの65で単独首位・日本ツアー賞金ランク1位
2位はゴンサロ・フェルナンデスカスタノ(スペイン)1打差
3位はタイガー・ウッズで5バーディー、2ボギーの67,世界ランク1位
3位伊沢利光,67
3位パドレイグ・ハリントン(アイルランド)67,欧州ツアー賞金王
ダンロップのゴルフ場は白砂青松の絶景で松風の屋号のレストランがあった。
宮崎市内を潮害風から営々と守ってきた元国有林。
林野庁長官を経て、県知事になった松形知事と佐藤棟梁のリゾート法第一号の施設である。
世界を暴れまくったジャパン。マネーを国内に振り向かせ、長期のデフレを米国の謀略でやらされた証拠の施設。
戦時中は松の木に切り傷をいれガソリンを採取し戦闘機を助けた。
せきやんの幼き頃はタバコの肥料にする為、落ち葉拾いに山奥から手押し大ハチではるばる来た。
このことに何の苦労も感じなかった団塊の世代は昭和23から25年を言う。
今、1クラス成立せず、複式学級なのに当時は50人6クラスもあの田舎の学校があった。26クラスあった話を聞いている。
団塊の780万人の人々のことだ。
TBS系クイズ番組『クイズダービー』の名物解答者だった漫画家のはらたいら(63)さんの訃報を聞いたが同世代人として妙脈切れ掛かっているのを思い知らされる。
49歳のとき。めまい、肩こり、腰痛に襲われ「女性の更年期障害みたい」「期」を乗り切り、
10年に及ぶ「更年期障害」を克服
鬱病を含めた著書を世にとうた。
年間3万人を超える日本の自殺者のうち、40、50歳代の働き盛りの世代が約4割を占め、それに鬱病は密接に関連している精神科医の高橋祥友著(『自殺予防』岩波新書)。
団塊の世代はたいていのことに耐ええるが軟弱であったようだ。
ところで、この西側一体の農地地域は開拓地域。少し南側の優良田にになると天領地。
開拓者は愛媛を中心とした愛媛の方々が多い。
そういえば、長崎諫早のミカン脳かもそうであった。
ハワイではマグマそのものが見れるが、日本も火山の国。
ただ、活火山で個人所有はここだけであろう。
北海道の-昭和新山の持ち主は愛媛の人・三松正夫の個人所有地。
戦火で戦時一色の昭和18年、
突然地震と共に始まり、麦畑が隆起して出来た火山は、後に昭和新山と命名。
時節柄、食料もなく、フィルム・紙・衣類にも事欠く中で、誰一人として研究する学者もない世相。。
壮瞥町で郵便局長をしていた一人の男がこの噴火を見守っていた。
「噴火は地球内部を探る最大のチャンス」と、寝食を忘れ、創意工夫を重ねてこの活動の一部始終を記録した。
昭和21年には、私財をなげうちこの土地を買い取る。
昭和23年、オスローで開かれた「万国火山会議」に提出されたこの資料は「ミマツダイヤグラム」と名ずけられ、
多くの専門家が絶賛
「第一回北海道文化賞」で国家はその業績をたたえた。
昭和52年、生涯3度目の有珠山噴火を体験し、89歳で崩御。
記念館で偲べる。
北海道の開拓時代にだが、全国津々浦々に有ったお話。
その国後で戸籍が見つかった。と15日のニュース
国後や択捉に愛媛から30人が移住した記録がある。
未知の地に挑戦した勇気は、秘めた温かい夢。
第2の故郷となるはずの土地は今は日本の手にない。
昨日のニュースの発見された戸籍が如何にうまくしてくれるやも知れない。
松山出身の正岡子規
島々に灯をともしけり春の海
春の夢は遥(はる)か遠く北国の冬はもう始まっている。
いつ来るやもしれぬ春をまつ。
鴎外にして、安寿と厨子王の子らを探すひたすら耐える親である。
♪安寿かわいやホ〜ヤレホ♪厨子王かわいやホ〜ヤレホ♪
来るあてもないTELを寸暇を凌いでひたすら偶然の合致する時間を待つ。
深夜ならいつでもいるが、なかなか上手くいかない。
とりつくしまもない一族にしてしまってる不憫さをひたすら懺悔する。
子を思う親の不憫さは浄瑠璃の世界よりの悲劇をもって己を責める。
かくも長き辛き自省が続くものである。
ただひたすらの自戒と反省
秀○先生のTELは深夜もないのか。
池ポチゃ、バンカーつかまりのダブル・ボギー
起死回生の挽回策を取り組んでいる最中である。
ほんのいっときの期間の助力は仰げぬものか。
開拓の精神には反することであろうか。
訪れていただいた
皆々様にお願いいたします。
全員の方々の
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上着は熱く辛い異常なる暑さが続いている。
生死を賭けた手術に立ち会いつつの二股で大変である。
集中できねば、いい結果にはならない。
メンタルなものの第一はなんたってゴルフ。
ドライバーで250M飛ばそうが、パターを4〜5もヤッチャ〜ダメ。
所詮一打は一打。学ぶべきものがある。
内外のプロ84選手が参加。
熱戦のダンロップフェニックス・トーナメント(
6907ヤード=パー70、賞金総額2億円、優勝4000万円)が16日開幕した。
1位は片山晋呉7バーディー、2ボギーの65で単独首位・日本ツアー賞金ランク1位
2位はゴンサロ・フェルナンデスカスタノ(スペイン)1打差
3位はタイガー・ウッズで5バーディー、2ボギーの67,世界ランク1位
3位伊沢利光,67
3位パドレイグ・ハリントン(アイルランド)67,欧州ツアー賞金王
ダンロップのゴルフ場は白砂青松の絶景で松風の屋号のレストランがあった。
宮崎市内を潮害風から営々と守ってきた元国有林。
林野庁長官を経て、県知事になった松形知事と佐藤棟梁のリゾート法第一号の施設である。
世界を暴れまくったジャパン。マネーを国内に振り向かせ、長期のデフレを米国の謀略でやらされた証拠の施設。
戦時中は松の木に切り傷をいれガソリンを採取し戦闘機を助けた。
せきやんの幼き頃はタバコの肥料にする為、落ち葉拾いに山奥から手押し大ハチではるばる来た。
このことに何の苦労も感じなかった団塊の世代は昭和23から25年を言う。
今、1クラス成立せず、複式学級なのに当時は50人6クラスもあの田舎の学校があった。26クラスあった話を聞いている。
団塊の780万人の人々のことだ。
TBS系クイズ番組『クイズダービー』の名物解答者だった漫画家のはらたいら(63)さんの訃報を聞いたが同世代人として妙脈切れ掛かっているのを思い知らされる。
49歳のとき。めまい、肩こり、腰痛に襲われ「女性の更年期障害みたい」「期」を乗り切り、
10年に及ぶ「更年期障害」を克服
鬱病を含めた著書を世にとうた。
年間3万人を超える日本の自殺者のうち、40、50歳代の働き盛りの世代が約4割を占め、それに鬱病は密接に関連している精神科医の高橋祥友著(『自殺予防』岩波新書)。
団塊の世代はたいていのことに耐ええるが軟弱であったようだ。
ところで、この西側一体の農地地域は開拓地域。少し南側の優良田にになると天領地。
開拓者は愛媛を中心とした愛媛の方々が多い。
そういえば、長崎諫早のミカン脳かもそうであった。
ハワイではマグマそのものが見れるが、日本も火山の国。
ただ、活火山で個人所有はここだけであろう。
北海道の-昭和新山の持ち主は愛媛の人・三松正夫の個人所有地。
戦火で戦時一色の昭和18年、
突然地震と共に始まり、麦畑が隆起して出来た火山は、後に昭和新山と命名。
時節柄、食料もなく、フィルム・紙・衣類にも事欠く中で、誰一人として研究する学者もない世相。。
壮瞥町で郵便局長をしていた一人の男がこの噴火を見守っていた。
「噴火は地球内部を探る最大のチャンス」と、寝食を忘れ、創意工夫を重ねてこの活動の一部始終を記録した。
昭和21年には、私財をなげうちこの土地を買い取る。
昭和23年、オスローで開かれた「万国火山会議」に提出されたこの資料は「ミマツダイヤグラム」と名ずけられ、
多くの専門家が絶賛
「第一回北海道文化賞」で国家はその業績をたたえた。
昭和52年、生涯3度目の有珠山噴火を体験し、89歳で崩御。
記念館で偲べる。
北海道の開拓時代にだが、全国津々浦々に有ったお話。
その国後で戸籍が見つかった。と15日のニュース
国後や択捉に愛媛から30人が移住した記録がある。
未知の地に挑戦した勇気は、秘めた温かい夢。
第2の故郷となるはずの土地は今は日本の手にない。
昨日のニュースの発見された戸籍が如何にうまくしてくれるやも知れない。
松山出身の正岡子規
島々に灯をともしけり春の海
春の夢は遥(はる)か遠く北国の冬はもう始まっている。
いつ来るやもしれぬ春をまつ。
鴎外にして、安寿と厨子王の子らを探すひたすら耐える親である。
♪安寿かわいやホ〜ヤレホ♪厨子王かわいやホ〜ヤレホ♪
来るあてもないTELを寸暇を凌いでひたすら偶然の合致する時間を待つ。
深夜ならいつでもいるが、なかなか上手くいかない。
とりつくしまもない一族にしてしまってる不憫さをひたすら懺悔する。
子を思う親の不憫さは浄瑠璃の世界よりの悲劇をもって己を責める。
かくも長き辛き自省が続くものである。
ただひたすらの自戒と反省
秀○先生のTELは深夜もないのか。
池ポチゃ、バンカーつかまりのダブル・ボギー
起死回生の挽回策を取り組んでいる最中である。
ほんのいっときの期間の助力は仰げぬものか。
開拓の精神には反することであろうか。
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