今日の誕生日の花は・・・・ハンゲショウ
花言葉は・・・・・・・内に秘めた情熱

ドクダミ科で白の花は花でなく葉。
ゆえの花言葉

この国は瑞穂の国、農耕の民である。
世界でも稀な四季を国家機構にも生活環境の気候にも持つ。
大勢キリストやイスラムの徒ではない。
神仏混合宗教の敬虔な宗教信を持つ民の国である。
先祖から受け継がれた長き伝統に暮らしている。

24節・七十二候の一つ「半夏生」から作られた暦日
、かつては夏至から数えて11日目は7月2日。

農家にとっては大事な節目の日で、この日までに農作業を終え
、この日から5日間は休みとする
この日は天から毒気が降ると言われ、井戸に蓋をして毒気を防いだり、
この日に採った野菜は食べてはいけないとされたりした。

列島にはあちこちに因習が残る。
三重の熊野地方や志摩地方の沿岸部などでは
、ハンゲという妖怪が徘徊するとされ、この時期に農作業を行うことに対する戒めとした
関西ではこの日に蛸
讃岐では饂飩・・(ウ~~ンそんな名のブログ・・ご迷惑かけで申し訳ない)
福井では大野市などで焼き鯖
それぞれ食べる習慣がある。
この頃に降る雨を「半夏雨」(はんげあめ)といい、大雨になることが多い。
下期スタートの一日の日向路はお天道様が一日天にあるようだ。
梅雨明けは未だだが水の中にも季節の移ろいは伝っている。
土手の下流るる清き水で洗濯を済まし
草船競争で遊びにあき
白きハンゲショウにさようならと
幼子の爺目は目で挨拶したものである。

木の揺れが 魚に移つれり 半夏生


一年の半分が終えた。
神仏混合宗教の列島の国では古来厄払いをした。
 夏越の大祓いは、一年のちょうど半分の区切りに当たる6月30日に
、お祓いをして罪穢れを祓い、これから迎える暑い夏を健やかにすごそうとする神事
「夏越の大祓い、茅の輪くぐり」。
 http://www.fukagawa-shinmei.com/event/20050630.html

上半期の文学賞が発表されよう
5月までに発表された作品を参考とする上半期の直木賞を注目している
直木三十五には中学自分であったと思うが娘との会話を想起する。
「芥川賞は解るが直木さんてな~に?」
中学生ゆえ説明が未消化であのときに時を戻してと思う。

昭和6年の作品「南国太平記」は歴史大衆小説のタネ本ともいえる金字塔。
司馬遼太郎以前の幕末作品群の基本書と爺目は見る。
海音寺潮五郎の西郷隆盛もこの直木の作品なくして生まれ得なかった。
薩摩藩をお世継ぎ問題に猟奇的に触れている作品で世に出た。
モトもと映画人である。
宗教的儀式をこの頃までの日本人は重んじていたことの証左である。

岡田ジャパンは紆余曲折を経てドン底から世界の舞台に飛び立ち一致団結で成果を挙げた。
カズ切り、俊輔切りの鬼に徹して最後に勝利をつかんだ。
岡田彰布とは早稲田大学の同級生
四年に一度の宴は終えた。
さぁ~この国の未来作りに向けた選挙へスィッチの切り替えである。

ブブセラの音がテレビから少しは薄らごう
国内連敗の地獄から神の粋に聖天した岡田武史(1956年8月25日~)は
神奈川逗子市に在住であるが出身は大阪とあるが
父君は産婦人科で本来岡田武史は四国香川のひと
活躍した長友は今治のひと。

ただ最後の首の皮一枚の勝敗を分けた差は何故でたのか。
政治の、国家国体の場にも共通することの欠落視点である。

総力戦の戦いの場においての民主党の乱れは酷い。
民主党のコレをよく観ると不思議と一致点がある。

28日、愛媛県今治市で小沢一郎前幹事長マニlフェクトを守れと発言。
    http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100629k0000m010041000c.html?inb=yt
29日 香川県綾川町で枝野幹事長小沢批判。
28日 次々世代皇位継承者を有する今上天皇次男紀子さまご成婚20年。

<国家騒乱は四国にアル>

愛媛今治は碩学東大総長を務めた矢内原忠雄の国。
1920年、師・新渡戸稲造の国際連盟事務次長への転出に伴い東大経済学部教授になる。
新渡戸の活躍は外国において「武士道」を著し広くこの国の民族性の根本を解き驚嘆させた。
1938 年岩波文庫に治められた 武士道は矢内原忠雄の訳書で師の功績に報いた

霞ヶ関官僚のトップになるためには今も昔も東大経済学部に限る。
その帝大の矢内原教授は厳しき時代にも怯まず学問的真理追究に象牙の塔から幅を広げて、まい進した学究の徒。
アジア諸国は騒乱期にあった。
資本の集中がもたらす殖民地化現象を実証的に『帝国主義下の台湾』として成就させた。
1937年、盧溝橋事件の直後に関わらず、『中央公論』誌に「国家の理想」評論を寄せた
これは時久を超え優れていて平成22年の御世にも通用するモノ。
  ・・・・・
国家が目的とすべき理想は正義であり、
正義とは弱者の権利を強者の侵害圧迫から守ることであること
、国家が正義に背反したときは国民の中から批判が出てこなければならないことなど
民主主義の理念が先取りして述べられている。
  ・・・・・
疾風怒濤の如く吹き荒れる時代の狂気に当然の如く教壇を追われた。
戦後東大教授に複壇。
、1951年、南原繁の後任として東京大学総長に選出される
1957年まで2期6年務めた
学内の学生劇団「ポポロ」公演に公安が紛れ込んでることが警察による系統的な学内スパイ活動が露見
学問の府の自立と学内ストライキ板ばさみの中「矢内原三原則」を打ち出し終止を図る。
ストライキ議案提案者の3名は原則として退学処分がその内容にある。
この適用者が社会党指導者江田三郎の長男現参議院議長江田五月、ほかに大臣を務めた今井澄などがいる。
子息は東大伊作教授。
駒場Iキャンパス内には、かつて「矢内原門」があり、今は「矢内原公園」にその名を残している。
この栄誉からシテ威徳が偲ばれる。

団塊の世代は戦後の焼け野が原の原風景から
一晩で土地の売買契約書が値段の関係で破棄されるという凄まじき好景気のバブル期
十数年も不景気が続いている現在のこの国。
余りにもの急激なこの国の変遷の生き証人であり驚いている。
戦後65年続いてきた自民党一党支配の政治状況が昨年政権交代で変わった。
鳩山・小沢政権は恣意的に潰された。
国体とは何か。
今改めて問われている。

<国家騒乱は四国にアル>

昭和天皇裕仁=ヒロヒトの名は一番の衝撃であった。
いまの平成今上天皇の名を誰が答えられようか。
明仁天皇(あきひと、1933年(昭和8年)12月23日 - )は在位:1989年(昭和64年)1月7日、日本の第125代天皇

このアキヒト天皇の呼称を爺目はもう一人記憶がある。
落語好きの持ちネタに崇徳院がある。
(あらすじは別に残す。)

小倉百人一首77番の歌として有名な第75代天皇 崇徳天皇の読まれた歌。
「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」 (詞花集・恋上)
  大意
「流れが速いので、岩に遮られて二手に分かれている川の流れがまた一つに合流するように、
今別れ別れになっているあなたともまたいつか逢いたいと思っています。」

この第75代天皇 崇徳天皇は諱を 顕仁(あきひと)
平成・今上天皇と同じ音を発する。
どうにも皇位継承にお悩みの因を爺目はいやさかの繁栄の祈りの焦点不足を感じる。
崇徳天皇(元永2年5月28日(1119年7月7日) - 長寛2年8月26日(1164年9月14日))
第75代天皇(在位1123年 - 1142年)。
退位後は新院、讃岐院とも呼ばれた

<この崇徳天皇の廟は四国にある。>

安岡正篤(まさひろ、1898年(明治31年)2月13日-1983年(昭和58年)12月13日)は大阪の人陽明学者
にあたるべき人不在の国家の不幸を思う

大阪市中央区生まれ幼くして四書五経の素読、学問に秀でて
、高知の人東京在住の安岡盛治の養子となる。
1922年(大正11年)に東京帝大の卒業記念として『王陽明研究』を執筆

朝青龍の陰にチラつく、テレビ・スピチアルでブームに火をつけた銀座のバーで占いを覚えた不逞の輩。
1983年 当時赤坂のレストランパブ「マンハッタン」の経営者だった詐欺師、戸籍偽造・細木数子そのひと。
85歳で認知症の症状のとき不可思議に入籍親戚から物議を醸し裁判沙汰。
それで右翼繋がりいまの横柄不遜の態度である。
テレビからの追放劇は余りにもの暴力団との関係があったゆえ。
島田紳助も同じで年内イッパイの天下であろう。
創価といい宗教団体規制は大相撲の本心タルと同じで緊急である。
JALを食いつぶしたのは創価でアルがかってJALは児玉誉士夫の闇の資金源であった。
、40歳近く歳の離れた女性との再婚と騒がれまもなく1983年12月13日享年85逝去した。
1983年12月13日逝去。享年85
葬儀委員長に岸信介、同副委員長に稲山嘉寛・大槻文平・田中秀雄、委員に新井正明・江戸英雄・平岩外四ら。
政界からは当時の総理・中曽根康弘を始め、田中・福田・鈴木の各歴代総理が並び
中華民国の馬樹礼、韓国の朴泰俊等高官の参列。死しても恐れ畏怖された。
安岡正篤は東大を経て文部省に入省するも半年で辞し、「東洋思想研究所」を設立、
開設した金鶏学院で1932年“日本主義に基づいた国政改革を目指す”として、
酒井・後藤文夫・近衛文麿らとともに国維会を設立、新官僚の本山となった
昭和史の事件の数々には安岡の陰、人脈が暗躍する。
、二・二六事件の首謀者西田税、
血盟団事件井上日召
北一輝・大川周明の猶存社のメンバーでもあった。

年上である八代六郎元海軍大将、山本五十六、更には蒋介石などとも親交があり、
戦時中には大東亜省顧問として外交政策などに関わった。
東洋宰相学、帝王学を歴代総理に伝授。
この国の節目節目に名をなした。
昭和20年8月15日の終戦の詔書
池田勇人の派閥研究会「宏池会」の命名者
小渕官房長官の掲げた「平成」
あの「平成」の元号を決めた人。

佐藤栄作の総理就任前の訪米時に応対辞令の極意を授けた。
、このときのケネディ大統領との会談が
ケネディに沖縄返還交渉開始を決断させたと言われる。

<安岡家は四国である。>

<国家騒乱は四国にアル>
<菅は四国巡礼で禊をした>
<菅を焚きつけ売国政権にした仙石は四国の人>
<転換期に異色の総理三木武夫は四国の人>
<仙石はひたすら菅の後継で動いてる気配アリ>
<闇社会を仕切った幕末・維新期の次郎長も代参で四国に石松を使わした。>

<四国を称えずして国家の繁栄はない。>

憤怒の大魔王「崇徳上皇」詳しくはブログがある。
http://inoues.net/tenno/sutoku_tenno.html

皇室における怨霊物語の内で、一番強烈なのはこの崇徳帝の怨霊である。
以後、天災や飢饉のような都に於ける凶事は多くが崇徳帝の怨霊のせいにされ、
ことあるごとに、崇徳院の祟りではないかと噂された。
江戸時代になってからも、歴代の高松藩主は白峰陵を手厚く祀っている。

怨霊に対する恐怖は近代の皇室においても同様で
、慶応4年(1868)戊辰戦争に際し
、まだ江戸へ遷都する前の明治天皇は、
崇徳院の怨霊を鎮め、朝廷の守護神となって貰うため、
皇宮近くに白峰神宮を造営し、
崇徳上皇の命日に讃岐の白峰から崇徳上皇の神霊を迎え入れた。
崇徳天皇は、死後700年を経て、ようやく京都に帰ることが出来たのである。

歴史て国難にすべて絡んでくる崇徳の霊
保元の乱(1156年)・・源平の争乱。・・

京都の繁華街・祇園の真ん中に、崇徳院(崇徳上皇)をまつる御廟がある。
粟田宮内にも崇徳院御影堂が建立されている。

崇徳天皇は異母弟の近衛天皇が若くして崩御したときに、再度、自分が天皇になるか息子を天皇にさせようとする。。
近衛天皇の母が「近衛が亡くなったのは崇徳が呪いをかけたからだ」と言い、
その讒言を信じた父の鳥羽上皇は弟の後白河天皇を即位させた。

ここに1つ目の恨み。

父と不仲になった崇徳天皇は保元の乱をおこし、敗れて讃岐に流刑。
讃岐で謹慎しながら、自ら書き記した5巻の経典を、弟の後白河法皇に送って
京の仏閣に収めてほしいと伝えた
朝廷はこれを拒否して送り返す。

これが2つ目の恨み。

送り返された経典を見た崇徳天皇は、自身の舌を噛み切って、その血で経典に呪いの言葉を書いた。

「この経典の力を持って天皇家を永遠に呪い、民を皇に、皇を民にする」

、自らを「日本国の大魔王」と称して爪や髪を伸ばし続け、夜叉のような姿になって没した。
崇徳天皇は保元の乱(1156年)で後白河天皇(1127~92)彼の死の直後には源平争乱んの因である。

明治元年京都市上京区今出川通白峯神宮、白峯神宮の名前の由来は
崇徳天皇崩御の地である白峯山からとったもの
現在も崇徳天皇陵は香川県坂出市青海町の白峯陵にある。

京都白峯神宮建立は明治維新によって、皇室に政治の主権が戻ってきた年である。
つまり、ようやく、崇徳天皇の呪いが晴れたということ

香川県坂出市にある白峯神宮
京都の白峯神宮
そもそもこの神社は・・・
孝明天皇(1831~67)の創設の遺志を継いだ明治天皇(1852~1912)の勅願ということで
、社格は最上位にある。

「まりの神様。スポーツの守護」と言う看板が掲げられている。
どうもこの白峯神社はスポーツ、それもとりわけサッカーにご利益があるらしい。

 そのいわれは、そもそもこの地には平安時代以来、蹴鞠の宗家であった飛鳥井家の邸宅があった場所
もともとここには「鞠の精」が宿っている。

2003(平成15)年の保存会100周年を記念して、
境内に「蹴鞠碑」が建立された。
球にちなみギャンブル狂はかつてはパチンコにご利益とした。

岡田ジャパンが最後の僅かの差の修羅が出たのは
お祓いが、宮参りの知恵者がなかったようである。
今上天皇に懸かる不遇にも言えること。
爺目はそうみる。

落語・崇徳院あらすじ
商家の若旦那・作次郎が重病になった。
医者の見立てでは
「医者や薬では治らない気病で
 、思いごとが叶えばたちどころに治るが放っておくと5日もつかどうか」
幼な馴染みである熊五郎が聞き出す。
作次郎が高津神社へ参詣したとき茶店で歳は17、8の美しい娘に一目惚れ。
娘が茶店を去る際、緋塩瀬(深紅色の羽二重)の茶帛紗を置き忘れていった
ので追いかけて届ける
娘は料紙に「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の」
という崇徳院の歌の上の句だけ書いて作次郎に手渡し去って行った。

下の句からあの娘は
「今日のところはお別れいたしますが、いずれ後にお目にかかれますように」と言ってくれていることに気付き
、思い詰めているのである。
しかし先方がどこの誰であるのか訊かなかったゆえ見当がつかない。
3日の猶予で探し出せばお礼は、蔵付きの借家を五軒譲渡し、別に300両の礼金。
そこであちこち探し回り、人の多く集まりやすい床屋や風呂屋と張り付く。
この日10数軒目の床屋。もうすでに剃れる髪も髭もない。
く、「いっそ植えてほしい」と悲鳴をあげる熊五郎。待合場で例によって「瀬をはやみ~
」と歌い出す。ちょうどそこへ入ってきたのが棟梁風の男、急いでいるので先にさせてほしいと先客に頼み、
髭を剃ってもらうことになった。

その男によると、主家のお嬢さんが今日明日とも知れぬ身。
その原因はお茶会帰りに高津神社の茶店に立ち寄った際、さる若旦那に気を取られてのこと。
恋煩いで頭が上がらなくなったというもの
男は、その若旦那を捜し出してくれと命ぜられてこれから紀州方面へ行こうとしている。
艱難辛苦の末にとうとう捜し求める娘が判った熊五郎。
その棟梁風の男に飛びかかり「うちへ来い!」
お互い揉み合いになり、弾みで床屋の鏡を割ってしまった。
「どないしてくれる」と怒った床屋の主人。
熊五郎は
「心配するな!崇徳院の下の句や!」
「割れても末(月末)に 買わんとぞ思う」

江戸落語では、高津神社の代わりに
上野の清水さん=寛永寺清水観音堂が舞台となる

30日、阿部26号セ最多でも広島は追いつくもヨシノブの単純なセカンドゴロに一塁悪送球エラーで9回に敗北した。
対ジャイアンツ8連敗は広島商野球を知ってる爺目ら世代には信じられないこと。
真剣の上を歩くという精神修行が全国を制覇した。
世界の王は日向の地でバットでなく真剣でのスィングで独特の打法を荒川と共に生み出した。
物議を醸して以来広島商業のあの野球を甲子園出場校の名を見ることがない。;
プロなら8連敗はなかろう。
ロッテ二位二日で浮上

国難にある。
売国の政治家に祓いをすまし、ひたすらのハレをまつ。

○富士、月山の山開き
○1918年童謡の日、赤い鳥創刊
○1889年(明治22)東海道全線開通新橋神戸開通
○1890年(明治23年)第一回総選挙15円以上納税 者のみ投票権
○1962年巨人軍王選手一本足打法でのぞむ
 5打数3安打ホームラン1本

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