今日の誕生日の花は・・・ヒマラヤスギ
花ことばは・・・・・・あなたのために生きる

湯豆腐や いのちのはての うすあかり


木枯らし第一号がまだ無く暖かい。
ところが春の風物詩のハズのこの時期12日に黄砂という。
こんなコトはなかった。
ミカン農家はたわわに実ってる木々に向けて水を吹き付け黄砂を流している。
ほっとくと皮に傷が残り品質が低下する。
隣国ゆえGAMAN?
急激な経済成長で水の使い過ぎの国内問題の環境汚染でしょう。
砂漠化は年々進行し北京の55キロまで接近中。
黄砂が飛んでくるといろいろと迷惑なので、中国の砂漠化を防止するために
日本が1兆7500億円の税金投入する。
オイオイ!
両国首脳会談ぐらい条件にしろ!
広州の豪華なアジア大会開会式を見て思う。
何が後進国ゆえの環境の支援ゾ!
自分トコの国富でまかなエッ!
ロンドン五輪は財政難
とても広州の開会式ほど豪華に出来ないらしい。

季節を知らせるにはいろんなナシグナルがある。
行事で言うなら、九州一周駅伝で冬到来を知らせた。
もう一つは大相撲九州場所。
これらの開催は木枯らしが吹き始めるお知らせ代わり。
大根を干すハの字の10メートルをゆうに超える大棚を造る
或いは納屋奥の千切り用の竹で編んだ簾を水洗いをする。
「ピユ~ツ」木枯らしの西風が吹き出すと千キリ大根干し。
ところが、木枯らし第一号何処でない。
昼間は24度。
13日もそうらしい。
13日朝3時から6時頃までマクドナルドに籠もり
選挙戦術政策議論。
よってブログは急こしらえ。

12日金曜日NHKテレビ19時30分~九州場所前夜祭。
14日が初日。
神代のこととまで語られてきた69連勝は
22日に到来する。
モンゴロイドのお尻のアオジンタンの日本人。
そのモンゴルよりきた双葉山の尊敬心のみ成らず相撲道に精通する日本人より日本人の魂を持った韃靼人(だったんじん)・白鵬が神世の記録と崇められたものを更新しよう。

双葉山は荘園時代九州を支配した宇佐神宮のある宇佐のヒト
以前アップしている。
http://36488.diarynote.jp/200610082156030000/
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:ke37TZN6iW0J:36488.diarynote.jp/%3Fpage%3D107+site:http://diarynote.jp/+%E5%8F%8C%E8%91%89%E5%B1%B1%E3%80%80%E3%81%9B%E3%81%8D%E3%82%84%E3%82%93&cd=5&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&lr=lang_ja
昭和32年に九州場所が制定され第53回目場所。
そういえばその第一回目九州場所は天神。
大分のヒト玉の海が優勝した。
無敵の横綱大関陣を敵ともせず平幕優勝。
3年後昭和35年大鵬の初めての優勝。
巨人大鵬卵焼き成る言葉が新聞に踊った。
49年から九電記念体育館に場所を移し北の湖年間最多勝82勝。
56年から国際体育館収容人員は4千増え1万人。
   千代の富士北の湖を凌ぎ決定戦で本割りで敗れた朝潮に勝ち8連覇
63年53連勝の千代の富士は優秀を決めてたがガチンコ横綱大乃国に千秋楽敗れた。

大相撲お歴史は神世の代第十一代天皇の頃
出雲より大和に召し出されたノミノスクネVSとタイマノケハヤが最初。
50年前の記憶ゆえ確かでない。
野見宿祢は相撲の祖であり菅原道真の先祖
兵庫たつの市の野見宿祢神社に祭られている。

734年(天平6年)の7月7日から野見宿祢の逸話に因んで相撲節会という祭りが正式に執り行われるようになった。

近代相撲は回向院を嚆矢とする。

両国駅はホーム内も食べ物で楽しいが駅を出て北に
その名も横綱とうりを歩くとスグ国技館、江戸博物館。
反対にまっすぐ東に二つの通りをやり過ごして両国橋を目指すと両国二丁目
何度かこのコースを歩いている。
東京大空襲お参りのため目指した
そこに回向院がある。

1781年(天明元年)以降には、境内で勧進相撲が興行された。
    これが今日の大相撲の起源。
1909年(明治42年)旧両国国技館が建てられるに至った。
   国技館建設までの時代の相撲を指して「回向院相撲」とも呼ぶ。
1936年(昭和11年)1月には大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀る「力塚」を建立した。
歴代横綱名が刻まれている。
柏鵬同時昇進時には早く横綱を引退した方が先として名だけで刻まれていた。

1657年(明暦3年)振袖火事と呼ばれる明暦の大火焼死者10万8千人。
将軍徳川家綱の幕命によってここに葬って万人塚とした。
これが浄土宗の寺・諸宗山回向院の始まり。本所回向院とも。
山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉など。
両国橋は参拝客のために架けられた。
鼠小僧次郎吉の隣に猫塚がある。
あとでいわれを残したい。

回向院は二つある。
じつはもう一つの方に行っていない。
別院である東京都荒川区南千住五丁目にある寺のこと。
刑場があったゆえ小塚原回向院とも。
敬愛する方の霊にお参りできていない。
安政の大獄により刑死した橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎
破獄上下は興味深く厳しく読んだ。
WIKIで教え戴いた。

戦後の代表的な誘拐事件の通称「吉展ちゃん事件」
犠牲者村越吉展ちゃん(当時4歳)の供養のために建立された「吉展地蔵尊」が入り口にある。
1771年(明和8年)に蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが刑死者の解剖(腑分け/ふわけ)
に立ち合ったことを記念した観臓記念碑(建立は1922年)がある。

猫の恩返し猫金という珍しき落語通しか知らない噺がある。
音源としては5代目古今亭志ん生のもので聴ける

回向院の猫塚の由来に関した噺。
藤岡屋由蔵の『藤岡屋日記』が原話。

リンク頂いてるネコ派の方に
とりわけ目に入れても痛くないグリーンやクロの可愛さったらありゃしない。
実にお優しい方に
日々ご教示の御礼をこめアップしたいコト。

江戸の八丁堀に住んでいる棒手振りの金さん
大晦日に友達のつき合いで博奕に手を出し、仕入れ用の金三両を失う。
正月二日の初商売に買い出しにいけなくなる。
金さん、可愛がっているコマという猫を相手にヤケ酒を飲みはじめる。
そして酔ったあげく三両の金を取られたいきさつをコマに話し
「猫に小判てえことがあるから、どっかへいって三両の金を都合してこいやい」
と無理なことをいいながら寝いる。

あくる元日の朝、目を覚まして枕許を見ると小判が三枚。
喜んで飛び起きた金さん
朝湯の帰りに酒を買ってきて飲みはじめた。
「コマよ、お前が三両持ってきてくれたのか。ありがとよ」
といっているうちはよかった
、そのうちに酔いが回ると冗談のつもりで
「どうせ持ってくるんなら三両なんていわねえで、もっとくわえてこいやい」。

翌日の正月二日、金さんは仕入れた品を掘留の戌亥という大店に持っていった。
ところが、正月にしては様子が変。
番頭に訊いてみると、大晦日の日に小判が三枚なくなったらしい。
元日の夜中、ガタガタと音がするので飛んでいったら、大きな猫が用箪笥の鐶(金属製の引き手)を口にくわえ、
一生懸命開けようとしている最中だった。
「さてはあの三両もこの猫が盗りやがったんだ」
と、店の若い者が手に手に棒を持って追いつめた末、その猫を殺してしまったという。

金さんが猫の死骸を見せてもらう
可愛がっていたコマの哀れな姿であった。
「勘弁してくれ」と泣きくずれる金さんから事情を聞いた戌亥の主人
コマに大いに感心して、
「これで回向院に葬っておやり」
と五両の金を金さんにわたした。
そのコマのお墓は鼠小僧の隣に建てられたという。
それからの金さんは酒も博奕もやめて一生懸命仕事に精を出すようになった。
やがて大きな店をかまえたが、その店のことを誰いうとなく「猫金、猫金」と呼ぶようになって繁昌し、明治まで続いたとのこと。


回向院の猫塚は珍しい。
猫は12支からも見送られている。
桃太郎の鬼退治のお供は猿犬雉それぞれ知仁勇

皇居に江戸城の天守閣復元のニュースがアル。
経済効果まで試算の上で説得がアル。
天守閣を失ったのはこの「振袖火事」=「明暦の大火」
江戸城本丸は五層五階の独立天守をもち、
天守は飾り瓦の破風板にまで金箔を貼った豪奢な造りだったらしい。
羽田国際化へ離着陸発進の織りでもある。
4離着陸の路線にしてハード面の整備が完工した観光立国化。
ならば当然目玉のソフト面の手当が入ろう。
猫も杓子も浦安では幼児化するのみ。
古くからの世界唯一の武家統治社会のシンボルの
天守閣作りのお城は観光立国としてのインパクトを与えよう。

本郷に本妙寺坂という地名が残る
本郷丸山に法華宗陣門流東京別院、通称・徳栄山本妙寺が在った存在証明。
明治四十三年に巣鴨に移った。
1657年=明暦三年江戸を焼き尽くした火は、この寺から出たとされている。
我が国の歴史の上で最大の火事「明暦の大火」と呼ばれる
世界三大大火の一つにも数えられる
もちろん人災のアメリカによる日本列島無差別爆撃や地震による関東大震災を除いてのこと
「丸山火事」「振袖火事」とも呼ばれる。
「丸山火事」とは本妙寺の所在地による名称。
「振袖火事」という艶っぽい名称、長きお話ゆえいずれ触れたい。
引用される資料は『むさしあぶみ』にアル。

本丸二の丸三の丸を失った。
復元できたのは二の丸三の丸。
天守閣の復元より江戸民の救済を優先した美徳の御話が残る。

二晩三日にかけて家康の入府以来半世紀を経てようやく成立した江戸の六割を焼き尽くし
十万人を超える死者を出した

将軍家綱の治世まだ十七歳。

WIKI・ブログにある歴史家教えること。

井伊直孝、松平信綱、酒井忠勝、阿部忠秋らの幕閣中枢
御殿へ火が移ったら将軍;家綱をどこへ避難させるかを話し合っている。
松平信綱は、徳川家菩提寺;上野寛永寺へ、
酒井忠勝は、牛込の酒井家下屋敷
井伊直孝は、将軍家守護は井伊家の役目と、赤坂の井伊家下屋敷
それぞれ言い張ってそれぞれ譲らない。

徳川の世を文治主義へと導いた中心人物保科正之がいた。
絶大なる能力を発揮した。
今日で言う指導力、危機管理である。
・修羅場に於いて、沈着冷静でいられるか、
・物事を即断できるか、
・他人の心理に思いを致すことができるか、
・即断する際、その次の局面を瞬時に想定できるか
・指揮命令系統は唯、一本であることを理解しているか
保科正之は、本領を発揮した。
老中でも益して大老でも何でもない。
幕閣としての役職をもたない。
しかし、火が江戸市中を舐め尽し、江戸城本丸表御殿にまで及ぼうとしているこの修羅場に遭遇して
不毛の論議を一喝して鎮めた。曰く、
「江戸開闢以来の大火とはいえ、天下の将軍が府城を捨てるとは何事! 
 本丸が火にかかれば西の丸にお渡りいただき、西の丸も火にかかれば本丸焼け跡に陣屋を建てるまで!」。

これが結論。

考えるべきは、この結論がベストであったかどうかということではない。
火が迫っているというのに、私欲も絡んだ議論をしている場合ではない。
時間を浪費すれば、被災のリスクが高まる。
ベストでなくベターでもいいから、誰かがリーダーシップを発揮して「決定」を下すことが重要なのだ。
そして、一度(ひとたび)「決定」が下れば、それに従って一丸となって進むようにチームをまとめ上げることだ。
平成日本人に最も欠落しているセンス。
この決定が今の時刻で言えば午後二時頃。
江戸城本丸は、午後三時頃には紅蓮の炎に包まれていた。

家綱を西の丸へ移し、一同にとりあえずの安堵の気分が流れた
老中たちは正之の会津藩中屋敷の安否を懸念した。
火が芝方面へ延びていたからである。
ところが私邸の安否を気にしている暇はない、と突っぱねたという。
徹底した「無私」。

丁度その織り、浅草蔵前の幕府米蔵に火が移った。
この米蔵は敷地面積が三万六千坪天領からの年貢米の大半が納められてその量は百万俵。
徳川宗家と切米(きりまい)取りの旗本・御家人の生活は、この米蔵の米が支えている。
急報に接した幕閣たちは、直ちに火消を差し向けよ! と騒然となった。
しかし、正之は、昨夜来火消はことごとく出払っているはず、とても余力はないと判断、
「飢えた者は浅草蔵前へ走り、火を消して米を持ち出せ、持ち出した米を持ち帰るは勝手次第」
、意表を衝く触れを出させた。
被災者の多くが、火を叩き消しながら浅草蔵前を目指した
、火消の役目を果たしながら彼らは米を目指し、結局、幕府米蔵は全焼を免れ、
蔵米は救助米と化したのである。

江戸城天守閣は今日に至るまで、二度と再建されることはなかった。
正之が、プライオリティの問題として再建させなかったのである。

悲惨な追い打ちが待っていた。
大火鎮火後の二十一日、江戸は大雪。
米軍の大空襲の際もそうであったが、大規模な空襲の後は雨となる。
振袖火事の場合も同じ現象で、恐らく季節の要因で雪となったものであろう。
焼死体が雪に覆われた。
焦熱地獄を味わって、まだ市中を彷徨っている被災者たちは一気に寒冷地獄に突き落とされた。
焼死の後には凍死。
二十三日から江戸市中六ヶ所で粥の炊き出しが始まった。

豪雨の奄美へ僅か百五十名の自衛隊を災害出動させるのに一体幾日を要したか
現政権の無能、
尖閣、北方四島への無策。
四百年近く前の幕府初期の行政スピードの素晴らしさ。
炊き出し所一ヶ所に使用した米は何と一千俵、
六ヶ所で六千俵
浅草蔵前で焼け残った蔵米も使用された。
幕府は、六千俵の米を六ヶ所に配送し、炊き出し用具を揃え、
要員を整えて、鎮火後中一日を置いて炊き出しを始めている。
並行して正之は、焼け出された町方の戸数を調査、
それら全戸に対して、間口一間につき三両一分の再建費用を供与することを決した。
その総額は約十六万両、
米に換算して二十三万石相当。
会津藩一藩すべてを供与することになる。

正之は、町方への支援策を優先して講じた上で、旗本・御家人たちにも支援の手を差し延べようとした。
こうなると、正之の対応を是としていた酒井忠勝はじめ幕閣中枢もさすがに懸念を示した。
幕府の御金蔵が空になってしまうというのである。
意に関せず
二十三万石に相当する救助金に更にどこまで上積みできるか。

ここでも正之の主張は、実にシンプル
官庫の蓄えとは士民を安堵させる為にこそあるもの、
むざむざ積み置くだけならば初めから蓄える必要もなし!
大老;井伊直孝以下は、懸念を示した前言を撤回
事態は直ぐ前進し始めた。

井伊直孝は保科正之の文治施策にことごとく反対した守旧派とのレッテルを貼られている。、
事実は違う。
譜代筆頭彦根藩井伊家の二代目(井伊家としては三代目)として家康の信任がことのほか厚く、
大坂の陣では、大坂方の総大将とも言うべき木村重成の首を上げた。
 弘道館の近くの寺に、今も木村重成は眠っている。
「井伊の赤備え」として天下に武威を示した武辺の将である。
幕府初期に於いて、江戸城内で厄介者;伊達政宗を押さえたのはこの男。
そして、正之と意見の衝突も当然あったが、常に背後から正之を支えている。
譜代筆頭・大老;井伊直孝が後ろに控えて正之の施策。

二十四日、炊き出し開始から二日目、この日は二代将軍秀忠の祥月命日に当たる。
当然、将軍:家綱は芝・増上寺へ参拝しなければならないが、正之は家綱を動かさなかった。
自らが将軍の代理として代参し、そのついでに京橋一帯などの被災状況を視察した。
そして、京橋一帯の死者を約二万五千、浅草のそれを八千強と、大老;井伊直孝に報告。

この時、問題としたのが川や堀に溺死している死体である。
当時は、川の中の杭などに遺体が引っ掛かっていたら、近隣住民はそれを杭からはがして押し流してしまう。
慈悲心を出して自ら引き揚げたり、番所へ通報した場合、
遺体処理、埋葬はそれに関わった当人が自費で行う慣わし。
正之は、江戸の民は将軍が江戸に居ればこそ集まって来た者、公儀の手ですべての遺体を一ヶ所に集め、手厚く葬ってあげるべきだと建議、
大老;井伊直孝以下幕閣は誰も異議を唱えなかった。
これによって本所・牛島に集められた遺体は九千六百五十三体。
これらが合葬されて「万人塚」ができた。
これが今日の回向院。
回向院には、最終的に十一万柱が埋葬された。

江戸の人口は武家を合わせて五十万人~六十万人。
既に十万人が焼死、生存人口は四十五万人。
このうち半分は武家。
直参を除いても約二十万人という人口は幕府がコントロールできる。
保科正之はココを見据えて策を献言
これに従って幕府は二月五日から立て続けに江戸参勤中の諸大名に帰国を命じた。
その数、都合二十三家。
仙台藩伊達家六十三万石ともなれば、つき従って帰国する人数は一万二~三千人にもなる。
同時に正之は、西の丸に復帰した翌日の二月九日、越後高田藩松平家二十六万石をはじめ十七家に今年の参勤を免じるとの幕命を発した。
この措置も、非常にスピーディ。
ゆえに江戸の米価急騰を受けて大坂商人たちが大儲けを企んで江戸へ米を回漕してきたタイミングと合致した。
江戸の人口が急減したタイミングに大量の米が江戸市中に流れた。
米価は一気に沈静化、逆に安値に転じたと伝わる。
行政が商人のスピードに匹敵する速さで手を打ち、商人=民間の思惑を打ち砕いた珍しい成功事例。

米価の暴騰に対して米を江戸市内に投入するだけでなく
米の需要と供給を見据え
武士の多い江戸民を減らして米の値段を下げさした訳だ。
武士は今言う膨れあがった公務員。
「北」の大兄様の米対策たる
米ベーカリーの平成の知恵のごとく米問題を見事に解決した前例。

12日、米飯で女性が糖尿病になるニュース。
これって余りにも日にちが近すぎ流石に露骨すぎるでしょう。
菅政権が厚労省に数字を出させていたのでしょうヨ。
もちろん宗主国米政府の指図!。
TPP絡みですよね。
考えられない話。
コメ農家を潰すために何でもやれということです。
ここまでやるのか
もう日本は終わりだ。

首脳集まっての続けて二つの大きな会議。
G20では通貨安競争に警告が発せられた。
APECは位置付けが不明になってきている。
とくに米国の覇権が落ちて中国・ロシアの新興国台頭でG20の役割の迷いがある。
ちなみにTPPは韓国・台湾、中ロも参加しないハズ。
国益として考えると、
市場として拡大する東アジア諸国とEPAやるなら理解できる。
鳩山小沢の東アジア経済圏構想。
あいついでの調整でスローなパニックなので、
雇用喪失数、消費者信頼感指数、住宅関連指標、物価下落傾向などの
長期トレンドをとってみればわかるコト。
大恐慌では下落と底ばい状態が48ヶ月くらい続きました。
実はニューディールをしても1933~37年は長期停滞でした。
本格的景気回復は戦争!・・でした。
実に怖い話ですが…。

インチキな不良債権処理に陥ると、中央銀行がいくらベースマネーを供給しても
信用が収縮しM2、M3が伸びません。
米国もこの「日本化」現象が起きています。
9月末決算では、JPモルガン、シティ、バンカメ、ウェルズ・ファーゴの4大銀行の合計貸出残高は
3兆ドル強と6月末から3%も減りました。
大手米銀が危ないのではないか…。

大恐慌を債務デフレと考えると、直前の1929年における民間と政府赤字を含む米国債務総計はGDPの1.85倍。 
リーマンショック前2007年の米国は3.35倍です。
バブルで膨らんだ借金と不良債権をマクロ政策だけでなくせると考えるのは
無理があります。
本格的景気回復は戦争!・・
実に怖い話ですが…。

APEC開催でTPPが大問題。
「米」で進まないTPPに参考にすべきこと。
大相撲の教えの制限時間いっぱいないの力仕事。大勝負。
官僚任せの逃げ一手の菅直人内閣には無理か。
察するに相撲なんて取ったこと無いんだろう。

土俵が成立してなき権力闘争?
「ノコッタ!ノコッタ」

菅内閣が長くなるほど
国家が溶解していく

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