今日の誕生日の花は・・・・シモツケ
花言葉は・・・・・いつかわかる真価
バラ科の此花は平安時代に知られていた。
栃木県でみつかったからの花の名の説
花を見ると霜に似たのをつけてるゆえ花の名の説。
ゆるぎなき 青田の色と なりにけり
タイガーウッズは男子ランキングナンバーワンに君臨。
ところで女子ランキングナンバーワンに
藍チャンなんである。
この偉業には恐れ入った。
いやぁ~ここまでゴルフ文化を引き上げた人が誰あろう。
その国の文化水準、デモクラシーをみるに娯楽、文化で制作された映画小説群で見ることも出来る。
国家の意図を除いたプロパガンタ映画以外はその国の民族を知ることが出来る。
たとえばこうだ。
W杯開催以降テレビで聞こえてくるブブセラの根音。
あれがアフリカ空気の文化と友人が言う。
行ったこともないのに教える人あり。
爺目の嫌らしさがついついからかい気味に出る
「吹いたことアルの?」
「トランペットやれるもの。」
「フ~~ン????」
どうにも怪しいのに気づく
虐めのつもりはないが矢継ぎ早に・・・
{アレ素材な~~ん?}
{どこでつくって~~~んの?}
とかく縁なきアフリカに関することゆえメッキはすぐにはげる。
21日19時ニュースで中国でブブセラは作られてると放映していた
情報取得ニュースソースは、圧倒的にテレビがいまだ主流にある
NHK大河ドラマ第一回は花の生涯
時代の寵児鬼っ子テレビへ五社協定さえあった映画界も協力した
第1話の放映は 1963年4月7日で年末の38話まで絶大なる人気を博した
幕末の大老・井伊直弼の生涯を描いた作品
キャストを見れば驚きだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B6%AF_(NHK%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E3%83%89%E3%83%A9%
E3%83%9E)
紆余曲折を経て原作者・舟橋聖一の鶴の一声で佐田啓二が初めてテレビドラマに出演
歌舞伎に穴を開けないことを条件で尾上松緑も
映画版で村山たか役の淡島千景がそのマンマ演じた。
第一話以外は残っていない。
DVDで観れるのは第1話のみ。
この作品完成までに昇華したのはNHKとRAI=イタリア放送局の合作で制作した『二つの橋』があったゆえ
これにスタッフが参加したゆえの人づくりがあったゆえ。
演出の合川明、井上博、脚本の北条誠が帰国してから具体化
そうそうたる時代劇作家群がみてとれる。
http://www9.nhk.or.jp/taiga/index.html
原作者の司馬遼太郎は5回
国民作家と冠名の吉川英治でさえ4回
橋田壽賀子宮尾登美子、舟橋聖一海音寺潮五郎がそれぞれ2回。
龍馬伝で49回を数えるが複数原作者はほかに見ない。
人の記憶とはいい加減なもので爺目はどうもコレが第2回の大佛次郎原作の 赤穂浪士と入れ替わる。
それもあの長谷川一夫、が画面の記憶はあるのに片岡千恵蔵と入れ替わるいい加減な記憶
時代劇TVDを所有してるのもいけない。。
映画とテレビ記憶が入れ替わりダブッテルゆえだ。
あのころの大河は映画人が多くなんと豪華スタッフなんだろう。
長谷川一夫、山田五十鈴、林与一、滝沢修、宇野重吉 ・・・
時代劇チャンバラ片岡千恵蔵尾上松緑の映画さえ映倫検閲でなく、GHQ検閲で規制された。
チャンバラ活劇の大御所片岡千恵蔵(1903年)3月30日 - 昭和58年)ナゾ
946年(昭和21年)43歳のおり、背広で「七つの顔を持つ男」「多羅尾伴内」を演じる
これはGHQの占領政策によって「剣戟映画」の製作本数が制限され、剣戟が出来なかったためである。
片岡千恵蔵この人は偉い。
群馬大のあるお国、新田郡藪塚本町現在の太田市生まれの東京育ち。、
ところで
明治大正期トーキー時代以前牧野省三が設立マキノ・プロダクションが時代を先駆リードした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B6%AF
直木三十五、衣笠貞之助、伊藤大輔、そして阪東妻三郎や勝見庸太郎など外部の独立プロダクションの若手とも提携し、数々の傑作を生み出した。
一世代前の事になる。
最末期にはトーキーの研究にとりくんで先駆的トーキー作品を発表、
牧野の長男で映画監督のマキノ正博が、わずか18歳で同撮影所長
この人は1930年(昭和5年)12月、賃金未払いが発生、従業員はストライキを起こした。
長男のマキノ正博は従業員側についた。
この人が牧野没後のマキノトーキー製作所へとバトンをつないでいく。
「片岡千恵蔵プロダクション」が作られたのは1928年(昭和3年)25歳のとき。。
作った作品が凄い。
伊丹万作、稲垣浩監督に山中貞雄、マキノ正博監督らで
『弥太郎笠』、『一本刀土俵入り』、『国士無双』
、『武道大鑑』、『風流活人剣』、『白夜の饗宴』
とりわけ記憶にある『宮本武蔵』シリーズ。
関ケ原の巻、一乗寺決闘・・
そこで世間はこう逸話で呼んだ。
・・・「千恵蔵」と書いて「武蔵」と読む・・・
1942年(昭和17年)39歳。
映画会社の戦時統合によって大映入り
『独眼龍政宗』宮本武蔵シリーズの『二刀流開眼』『決闘般若坂』『三代の盃』
、阪東妻三郎・嵐寛寿郎・市川右太衛門と共に大映の「時代劇四大スタア」
東宝に移った大河内傳次郎、長谷川一夫とあわせて「時代劇六大スタア」とも呼ばれた。
1972年、晩年は、テレビドラマに、脇役で出演する事が多かったが、
最後のテレビドラマの主役で出演したのが『世なおし奉行』。
この番組で、戦前の同時代に活躍、競い合った間柄の剣劇スター阪東妻三郎の息子の田村正和と共演
寄席を覗くと林家木久蔵なり円生異色の弟子で著作も刊した破門された川柳川柳。
パパ木久蔵の高座にかかる多羅尾伴内シリーズ声帯形態模写
千恵蔵を偲び畏怖するゆえか三丁目の夕日の映画みたいにペーソスさえ感じるいい高座になる。
メンコを宮崎田舎では「パッチン」の呼び名で遊んだ。
「カリコ」「ホンコ」と遊びも賭けて取り合い、増やしあい。世間に賭け事は蔓延してた。
学校の休み時間先生の目を盗み遊びながらの壮絶なる大人の知らない「パッチン」争奪戦があった。
苦い思い出がある。
校外授業の図画の時間。
自分の分まで順○クンに書いてもらい
自分は先生の目を盗んで遊びほうける。
お店をのぞくとナント最新版の一枚の大きな紙に何十枚数になる活劇時代劇六大スタアの「パッチン」
朝の集金時間PTA会費を出さずに持ってたカネで早速購入。
ヘタな絵が上手く描いてるゆえもあり本当はバレてたハズ。
図画の時間が終わりお手つないで帰るときこのパッチン所持がお咎め。
取り上げられ教室の先生用机の下に何ヶ月も保管されての見せしめに晒されてたあの悪がき爺目幼少期。
有名人今言うアイドルチャンバラ人ゆえ授業さえ身がいらなかった程。
チャンバラ以外にもちろん洋画三本立てとか小屋にかかってはいたが
田舎ゆえ環境が許さずラブシーンおおき洋画は軟弱なるモノが観る映画。でゴメンであった。
さてその大河のNO1ゆえの司馬遼太郎とは何者であったのか。
このくには坂本龍馬と司馬遼太郎を悪く言う人はいないんではなかろうか。
それが危ういんである。
坂本龍馬は以前触れたので
司馬遼太郎のみ触れてみる。
20日テレビ和田アッコのバラエティー番組に出てたアイドル。
時事にゅーすで大相撲問題をやっているアッコ。
大嶽親方=貴闘力あの貴乃花理事選挙で造反して当選させた信念信義の人。
時津風は双葉山の部屋
その大嶽親方が伝統ある大鵬部屋引継ぎの重みがあるのにと言ってたアッコ解説。
親方貴闘力を残念と叱責してた。
「巨人大鵬玉子焼き」とも言われてたのに。
そこでアイドルに聞く
あの一世を風靡した・・大鵬玉子焼きを聞くがチンプンカンプン。
まさかおバカキャラではあるまいに。
大鵬さえしらない。
そんな時代経過があるんである。
問題はこれからである。
・・なのに大相撲については意見を言う
「お相撲さんの野球賭博はいけないこと」
こんな奇妙キテレツな話はない。
何も知らないでも評論はする。
完全に総てが刷り込まれている証左にアル。
アカディミ作品コーブを東京の団体が反対運動をしてという。
ネトウヨでしかないのに団体ナゾで逃げるNHK。
小沢一郎を奇妙に追い求めるナゾの団体の小沢不起訴の検察に異議申し立て成り立ってる審査会二回目と同じ構造。
どうもこの手の団体いい加減知識が世間を世論誘導で席巻している。
カクさんスケさん黄門様の三人主役でアッタハズの水戸黄門。
時代の多様性もあり黄門様漫遊記は多くの人数でのドラマ構成にあるが如くの時代の移ろいニーズ。
国家意識水準を除けば、勧善懲悪の単純ストリーでの映画小説デ描かれる人々は全身全霊が聖人君子ではない。
井上ひさし死去で浮上した
司馬遼太郎「神話」を巡る疑惑を追う との記事がある。
井上の離婚時に司馬が出した手紙のなかに前妻と息子のことが書いてあった
コレは全集の履歴にもない新しきこと。
ギリシャ神話の裁きの神を冠したテーミス6月号の記事
「荷物を捨て船を救え」の意味
劇作家・小説家の井上ひさし氏が肺がんのため、75歳で亡くなった。生前つき合いのあった作家や知識人が井上氏の功績を伝えていた。演劇、小説、テレビなどあらゆる分野で卓抜した仕事を残した井上氏はたしかに天才であろう。しかし、その私生活といえば、元妻・西舘好子さんが井上氏の家庭内暴力の実態をかつて暴露したように、"破綻者"の片鱗があったことはたしかだ。
井上氏は後妻のユリさんと結婚前に家庭内にいるところを写真雑誌に撮られ、肖像権の侵害で出版社を相手取り損害賠償訴訟を起こしたこともあった。また、死去に際しても、長女が臨終に呼ばれなかったなど、複雑な家族関係が囁かれている。偉大な作家であるだけに、いずれ研究対象になることもあるのではないか。
そんな折、文芸研究家の馬場伯明氏が「井上ひさしの深慮」という興味深い文章を書いていた。
それは作家、司馬遼太郎氏が亡くなった際の、井上氏の「さようなら、司馬遼太郎さん」という追悼談の引用である。井上氏はこう書いた。
〈僕が離婚した直後(昭和61年)、司馬先生から長文の手紙が届きました。ふだんからよくお手紙を下さったんですが、あの手紙は、今も忘れられません〉
司馬氏はこの手紙の中で、海軍で船が沈みかけたとき、船内の荷物を海へどんどん投げ入れる例を挙げ、〈船を救うために荷物を捨てたんだと考えれば、離婚もまんざら悪いものじゃないじゃないか〉と書いたという。井上氏は〈身軽になって、仕事に集中してほしい、という励ましでした。しかも、ものすごい長文でね。あれで僕は、立ち直りましたよ〉というのである。
馬場氏はこれを読んで「井上ひさしが司馬の長文の手紙に励まされ、立ち直ったことはよかったのだろうが、荷物(妻子)を捨て、船(作家という仕事)を救えというのは、司馬自身の経験をもってした激励なのだろう」と指摘する。
馬場氏がこういうのは、この手紙の背後に司馬氏の"離婚問題"があるからだ。司馬氏の死の翌年のこと――。遺産約26億円がみどり夫人と長男へ相続されたことが新聞の片隅に小さく掲載されたことがある(日本経済新聞’97年2月14日夕刊など)。みどり夫人との間には子どもがいないことは知られている。
馬場氏は続けていう。
「司馬はみどり夫人と結婚する前に結婚し、息子を得ており、その後離婚している。この事実に触れることはマスコミや出版社にはタブーであり、当然のことながら全集の経歴にも記載がない。要は、本人が隠蔽したかったということであり、出版社は司馬の原稿欲しさに、報道を封印していたとみられても仕方がない」
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"封印"された福田定一本の謎
いみじくも、井上氏が書いた追悼談でその一端が暴露しかけたことになるが、肝心の井上氏はこの際、〈そのお手紙、あんまり大事にしすぎて、どこへしまいこんだか、わからなくなってしまったんです〉といっている。 馬場氏は「このことについてかつて井上氏側に事情を問う質問をしたが、返事は来なかった。手紙は長文だったというから、おそらく司馬はなぜ荷物(妻子)を捨てなければならなかったのか、いや、むしろ捨てたかったのか、その経緯が司馬の平易な文章で詳しく綴られていたはずだ。井上はしたたか。先輩作家の激励に感謝しながらも、同時に司馬の離婚の事実を暗示し、妻子を捨てた事実が世間に露見することを予想していたのではないか。井上の遠謀深慮で深い意味が見える」という。 みどり夫人は『司馬さんは夢の中』などで回想録を書いているが、司馬氏の前妻や息子についてはまったく触れていない。大出版社の出す年譜にもそのことはタブー扱いになっているのだが、相模女子大学教授・志村有弘編著による『司馬遼太郎事典』(勉誠出版)には以下の記述があった。
昭和25年(1950)27歳
この年に雅子と結婚し、左京区聖護院川原町に住む。1952年に長男が誕生するが、’54年2月に協議離婚となり、長男は福田家の両親に預ける。
当時、司馬氏は産経新聞京都支社に配属され、長男が生まれた’52年には大阪本社の地方部に勤務。’55年には本名・福田定一の名で『名言随筆サラリーマン』を発表している。
産経新聞文化部記者の松見みどりさんと結婚したのは、’59年1月11日のことで、ホテル東邦(大阪市)での結婚式には今東光夫妻、瀬川保、高橋了、俵萌子、神木淑子の6人が出席したという。
さらに「司馬研究本」のなかには驚くべき記述もあった。
『司馬遼太郎とその時代』(延吉実著・青弓社)では、福田定一はいかに司馬遼太郎になったのか、国民的作家として多くの人々の支持を得ながらも心の葛藤を抱えていた作家の闇を抉っている。
たとえば、東大阪市立花園図書館に〈司馬遼太郎コーナー〉がある。展示書籍には貴重本もあるが、そのなかには先に挙げた『名言随筆サラリーマン』もある。著者はその本の閲覧を申し出たが、司馬家の申し入れで「見せられない」といわれたのだという。
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教科書とは真逆の「実生活」が
また、産経新聞の司馬氏の後輩で作家の三浦浩氏は「福田(司馬)さんは通勤の電車の中で、一人の女の子が気にかかるようになった」と記しているが、『司馬遼太郎とその時代』の延吉氏によれば「右引用中の出来事は、三浦氏によれば『昭和25年』のことで、定一好みの『女の子』というのは、のちのみどり(司馬)夫人だった」という。だが、’50年(昭和25年)といえば、まさに司馬氏が前妻と結婚した年なのだ。
司馬氏には「21世紀に生きる君たちへ」という小学校の国語の教科書にも掲載された一文がある。
〈君たちは、いつの時代でもそうであったように、自己を確立せねばならない。――自分に厳しく、相手にはやさしく。という自己を。〉
こういって司馬氏は〈助け合う気持ち〉や〈いたわりという感情〉を説いたが、実生活はどうなのか。
前出の馬場氏は指摘する。
「司馬遼太郎の政治的な発言や小説の内容については何も異議はない。しかし、最初の妻や息子がいるという事実を故意に隠したまま、人間の個人的な生き方についてえらそうな説教をするのはよくないのではないか。世の中には不幸にして妻子と別れるようなこともあるが、『自分にやさしく、相手に厳しく、他人の痛みを感じず、相手をいたわらなかった』では、教科書とは真逆だ」
司馬文学はいまも日本の文化や社会に多大な影響を及ぼしているだけに、いまからでも公表・訂正すべきではないだろうか。
こうテーミス記事にアルので記憶に残す。
。
政党の公約にもない・・ましてや4年間は増税はしない公約さえあるのに・・・
消費税10パーセントを急遽言い出すキチガイ総理さえ出現する時代ゆえこの国の文化水準はたかが知れている。
品よく言葉狩りナゾであそんでたら子や孫の世代には
この国はいかようになってることだろうか。
嗚呼・・・・・
松下塾の政治家に胡散臭さを直感するが如く
産経の出の記者にはなんか感じる爺目でアル。
・司馬遼太郎とその時代
・司馬遼太郎事典
・名言随筆サラリーマン
著作書は蔵書にも田舎ゆえか図書館にもない・・焚書?
○1931年6人乗り福岡大阪行き墜落最初の事故
○1965年日韓基本条約調印
○1998年平成10年金融監督庁発足、大蔵権限集中か ら分離するため。
○2002年モスクワ・チャィコスキー音楽祭
第12回(2002年)
ピアノ部門
第1位 上原彩子最高の栄誉
ほかに部門は違うが三人の最高の栄誉者
第9回(1990年)
ヴァイオリン部門
第1位 諏訪内晶子
第11回(1998年)
声楽部門第1位
佐藤美枝子
第13回(2007年)
ヴァイオリン部門
第1位 神尾真由子
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花言葉は・・・・・いつかわかる真価
バラ科の此花は平安時代に知られていた。
栃木県でみつかったからの花の名の説
花を見ると霜に似たのをつけてるゆえ花の名の説。
ゆるぎなき 青田の色と なりにけり
タイガーウッズは男子ランキングナンバーワンに君臨。
ところで女子ランキングナンバーワンに
藍チャンなんである。
この偉業には恐れ入った。
いやぁ~ここまでゴルフ文化を引き上げた人が誰あろう。
その国の文化水準、デモクラシーをみるに娯楽、文化で制作された映画小説群で見ることも出来る。
国家の意図を除いたプロパガンタ映画以外はその国の民族を知ることが出来る。
たとえばこうだ。
W杯開催以降テレビで聞こえてくるブブセラの根音。
あれがアフリカ空気の文化と友人が言う。
行ったこともないのに教える人あり。
爺目の嫌らしさがついついからかい気味に出る
「吹いたことアルの?」
「トランペットやれるもの。」
「フ~~ン????」
どうにも怪しいのに気づく
虐めのつもりはないが矢継ぎ早に・・・
{アレ素材な~~ん?}
{どこでつくって~~~んの?}
とかく縁なきアフリカに関することゆえメッキはすぐにはげる。
21日19時ニュースで中国でブブセラは作られてると放映していた
情報取得ニュースソースは、圧倒的にテレビがいまだ主流にある
NHK大河ドラマ第一回は花の生涯
時代の寵児鬼っ子テレビへ五社協定さえあった映画界も協力した
第1話の放映は 1963年4月7日で年末の38話まで絶大なる人気を博した
幕末の大老・井伊直弼の生涯を描いた作品
キャストを見れば驚きだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B6%AF_(NHK%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E3%83%89%E3%83%A9%
E3%83%9E)
紆余曲折を経て原作者・舟橋聖一の鶴の一声で佐田啓二が初めてテレビドラマに出演
歌舞伎に穴を開けないことを条件で尾上松緑も
映画版で村山たか役の淡島千景がそのマンマ演じた。
第一話以外は残っていない。
DVDで観れるのは第1話のみ。
この作品完成までに昇華したのはNHKとRAI=イタリア放送局の合作で制作した『二つの橋』があったゆえ
これにスタッフが参加したゆえの人づくりがあったゆえ。
演出の合川明、井上博、脚本の北条誠が帰国してから具体化
そうそうたる時代劇作家群がみてとれる。
http://www9.nhk.or.jp/taiga/index.html
原作者の司馬遼太郎は5回
国民作家と冠名の吉川英治でさえ4回
橋田壽賀子宮尾登美子、舟橋聖一海音寺潮五郎がそれぞれ2回。
龍馬伝で49回を数えるが複数原作者はほかに見ない。
人の記憶とはいい加減なもので爺目はどうもコレが第2回の大佛次郎原作の 赤穂浪士と入れ替わる。
それもあの長谷川一夫、が画面の記憶はあるのに片岡千恵蔵と入れ替わるいい加減な記憶
時代劇TVDを所有してるのもいけない。。
映画とテレビ記憶が入れ替わりダブッテルゆえだ。
あのころの大河は映画人が多くなんと豪華スタッフなんだろう。
長谷川一夫、山田五十鈴、林与一、滝沢修、宇野重吉 ・・・
時代劇チャンバラ片岡千恵蔵尾上松緑の映画さえ映倫検閲でなく、GHQ検閲で規制された。
チャンバラ活劇の大御所片岡千恵蔵(1903年)3月30日 - 昭和58年)ナゾ
946年(昭和21年)43歳のおり、背広で「七つの顔を持つ男」「多羅尾伴内」を演じる
これはGHQの占領政策によって「剣戟映画」の製作本数が制限され、剣戟が出来なかったためである。
片岡千恵蔵この人は偉い。
群馬大のあるお国、新田郡藪塚本町現在の太田市生まれの東京育ち。、
ところで
明治大正期トーキー時代以前牧野省三が設立マキノ・プロダクションが時代を先駆リードした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B6%AF
直木三十五、衣笠貞之助、伊藤大輔、そして阪東妻三郎や勝見庸太郎など外部の独立プロダクションの若手とも提携し、数々の傑作を生み出した。
一世代前の事になる。
最末期にはトーキーの研究にとりくんで先駆的トーキー作品を発表、
牧野の長男で映画監督のマキノ正博が、わずか18歳で同撮影所長
この人は1930年(昭和5年)12月、賃金未払いが発生、従業員はストライキを起こした。
長男のマキノ正博は従業員側についた。
この人が牧野没後のマキノトーキー製作所へとバトンをつないでいく。
「片岡千恵蔵プロダクション」が作られたのは1928年(昭和3年)25歳のとき。。
作った作品が凄い。
伊丹万作、稲垣浩監督に山中貞雄、マキノ正博監督らで
『弥太郎笠』、『一本刀土俵入り』、『国士無双』
、『武道大鑑』、『風流活人剣』、『白夜の饗宴』
とりわけ記憶にある『宮本武蔵』シリーズ。
関ケ原の巻、一乗寺決闘・・
そこで世間はこう逸話で呼んだ。
・・・「千恵蔵」と書いて「武蔵」と読む・・・
1942年(昭和17年)39歳。
映画会社の戦時統合によって大映入り
『独眼龍政宗』宮本武蔵シリーズの『二刀流開眼』『決闘般若坂』『三代の盃』
、阪東妻三郎・嵐寛寿郎・市川右太衛門と共に大映の「時代劇四大スタア」
東宝に移った大河内傳次郎、長谷川一夫とあわせて「時代劇六大スタア」とも呼ばれた。
1972年、晩年は、テレビドラマに、脇役で出演する事が多かったが、
最後のテレビドラマの主役で出演したのが『世なおし奉行』。
この番組で、戦前の同時代に活躍、競い合った間柄の剣劇スター阪東妻三郎の息子の田村正和と共演
寄席を覗くと林家木久蔵なり円生異色の弟子で著作も刊した破門された川柳川柳。
パパ木久蔵の高座にかかる多羅尾伴内シリーズ声帯形態模写
千恵蔵を偲び畏怖するゆえか三丁目の夕日の映画みたいにペーソスさえ感じるいい高座になる。
メンコを宮崎田舎では「パッチン」の呼び名で遊んだ。
「カリコ」「ホンコ」と遊びも賭けて取り合い、増やしあい。世間に賭け事は蔓延してた。
学校の休み時間先生の目を盗み遊びながらの壮絶なる大人の知らない「パッチン」争奪戦があった。
苦い思い出がある。
校外授業の図画の時間。
自分の分まで順○クンに書いてもらい
自分は先生の目を盗んで遊びほうける。
お店をのぞくとナント最新版の一枚の大きな紙に何十枚数になる活劇時代劇六大スタアの「パッチン」
朝の集金時間PTA会費を出さずに持ってたカネで早速購入。
ヘタな絵が上手く描いてるゆえもあり本当はバレてたハズ。
図画の時間が終わりお手つないで帰るときこのパッチン所持がお咎め。
取り上げられ教室の先生用机の下に何ヶ月も保管されての見せしめに晒されてたあの悪がき爺目幼少期。
有名人今言うアイドルチャンバラ人ゆえ授業さえ身がいらなかった程。
チャンバラ以外にもちろん洋画三本立てとか小屋にかかってはいたが
田舎ゆえ環境が許さずラブシーンおおき洋画は軟弱なるモノが観る映画。でゴメンであった。
さてその大河のNO1ゆえの司馬遼太郎とは何者であったのか。
このくには坂本龍馬と司馬遼太郎を悪く言う人はいないんではなかろうか。
それが危ういんである。
坂本龍馬は以前触れたので
司馬遼太郎のみ触れてみる。
20日テレビ和田アッコのバラエティー番組に出てたアイドル。
時事にゅーすで大相撲問題をやっているアッコ。
大嶽親方=貴闘力あの貴乃花理事選挙で造反して当選させた信念信義の人。
時津風は双葉山の部屋
その大嶽親方が伝統ある大鵬部屋引継ぎの重みがあるのにと言ってたアッコ解説。
親方貴闘力を残念と叱責してた。
「巨人大鵬玉子焼き」とも言われてたのに。
そこでアイドルに聞く
あの一世を風靡した・・大鵬玉子焼きを聞くがチンプンカンプン。
まさかおバカキャラではあるまいに。
大鵬さえしらない。
そんな時代経過があるんである。
問題はこれからである。
・・なのに大相撲については意見を言う
「お相撲さんの野球賭博はいけないこと」
こんな奇妙キテレツな話はない。
何も知らないでも評論はする。
完全に総てが刷り込まれている証左にアル。
アカディミ作品コーブを東京の団体が反対運動をしてという。
ネトウヨでしかないのに団体ナゾで逃げるNHK。
小沢一郎を奇妙に追い求めるナゾの団体の小沢不起訴の検察に異議申し立て成り立ってる審査会二回目と同じ構造。
どうもこの手の団体いい加減知識が世間を世論誘導で席巻している。
カクさんスケさん黄門様の三人主役でアッタハズの水戸黄門。
時代の多様性もあり黄門様漫遊記は多くの人数でのドラマ構成にあるが如くの時代の移ろいニーズ。
国家意識水準を除けば、勧善懲悪の単純ストリーでの映画小説デ描かれる人々は全身全霊が聖人君子ではない。
井上ひさし死去で浮上した
司馬遼太郎「神話」を巡る疑惑を追う との記事がある。
井上の離婚時に司馬が出した手紙のなかに前妻と息子のことが書いてあった
コレは全集の履歴にもない新しきこと。
ギリシャ神話の裁きの神を冠したテーミス6月号の記事
「荷物を捨て船を救え」の意味
劇作家・小説家の井上ひさし氏が肺がんのため、75歳で亡くなった。生前つき合いのあった作家や知識人が井上氏の功績を伝えていた。演劇、小説、テレビなどあらゆる分野で卓抜した仕事を残した井上氏はたしかに天才であろう。しかし、その私生活といえば、元妻・西舘好子さんが井上氏の家庭内暴力の実態をかつて暴露したように、"破綻者"の片鱗があったことはたしかだ。
井上氏は後妻のユリさんと結婚前に家庭内にいるところを写真雑誌に撮られ、肖像権の侵害で出版社を相手取り損害賠償訴訟を起こしたこともあった。また、死去に際しても、長女が臨終に呼ばれなかったなど、複雑な家族関係が囁かれている。偉大な作家であるだけに、いずれ研究対象になることもあるのではないか。
そんな折、文芸研究家の馬場伯明氏が「井上ひさしの深慮」という興味深い文章を書いていた。
それは作家、司馬遼太郎氏が亡くなった際の、井上氏の「さようなら、司馬遼太郎さん」という追悼談の引用である。井上氏はこう書いた。
〈僕が離婚した直後(昭和61年)、司馬先生から長文の手紙が届きました。ふだんからよくお手紙を下さったんですが、あの手紙は、今も忘れられません〉
司馬氏はこの手紙の中で、海軍で船が沈みかけたとき、船内の荷物を海へどんどん投げ入れる例を挙げ、〈船を救うために荷物を捨てたんだと考えれば、離婚もまんざら悪いものじゃないじゃないか〉と書いたという。井上氏は〈身軽になって、仕事に集中してほしい、という励ましでした。しかも、ものすごい長文でね。あれで僕は、立ち直りましたよ〉というのである。
馬場氏はこれを読んで「井上ひさしが司馬の長文の手紙に励まされ、立ち直ったことはよかったのだろうが、荷物(妻子)を捨て、船(作家という仕事)を救えというのは、司馬自身の経験をもってした激励なのだろう」と指摘する。
馬場氏がこういうのは、この手紙の背後に司馬氏の"離婚問題"があるからだ。司馬氏の死の翌年のこと――。遺産約26億円がみどり夫人と長男へ相続されたことが新聞の片隅に小さく掲載されたことがある(日本経済新聞’97年2月14日夕刊など)。みどり夫人との間には子どもがいないことは知られている。
馬場氏は続けていう。
「司馬はみどり夫人と結婚する前に結婚し、息子を得ており、その後離婚している。この事実に触れることはマスコミや出版社にはタブーであり、当然のことながら全集の経歴にも記載がない。要は、本人が隠蔽したかったということであり、出版社は司馬の原稿欲しさに、報道を封印していたとみられても仕方がない」
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"封印"された福田定一本の謎
いみじくも、井上氏が書いた追悼談でその一端が暴露しかけたことになるが、肝心の井上氏はこの際、〈そのお手紙、あんまり大事にしすぎて、どこへしまいこんだか、わからなくなってしまったんです〉といっている。 馬場氏は「このことについてかつて井上氏側に事情を問う質問をしたが、返事は来なかった。手紙は長文だったというから、おそらく司馬はなぜ荷物(妻子)を捨てなければならなかったのか、いや、むしろ捨てたかったのか、その経緯が司馬の平易な文章で詳しく綴られていたはずだ。井上はしたたか。先輩作家の激励に感謝しながらも、同時に司馬の離婚の事実を暗示し、妻子を捨てた事実が世間に露見することを予想していたのではないか。井上の遠謀深慮で深い意味が見える」という。 みどり夫人は『司馬さんは夢の中』などで回想録を書いているが、司馬氏の前妻や息子についてはまったく触れていない。大出版社の出す年譜にもそのことはタブー扱いになっているのだが、相模女子大学教授・志村有弘編著による『司馬遼太郎事典』(勉誠出版)には以下の記述があった。
昭和25年(1950)27歳
この年に雅子と結婚し、左京区聖護院川原町に住む。1952年に長男が誕生するが、’54年2月に協議離婚となり、長男は福田家の両親に預ける。
当時、司馬氏は産経新聞京都支社に配属され、長男が生まれた’52年には大阪本社の地方部に勤務。’55年には本名・福田定一の名で『名言随筆サラリーマン』を発表している。
産経新聞文化部記者の松見みどりさんと結婚したのは、’59年1月11日のことで、ホテル東邦(大阪市)での結婚式には今東光夫妻、瀬川保、高橋了、俵萌子、神木淑子の6人が出席したという。
さらに「司馬研究本」のなかには驚くべき記述もあった。
『司馬遼太郎とその時代』(延吉実著・青弓社)では、福田定一はいかに司馬遼太郎になったのか、国民的作家として多くの人々の支持を得ながらも心の葛藤を抱えていた作家の闇を抉っている。
たとえば、東大阪市立花園図書館に〈司馬遼太郎コーナー〉がある。展示書籍には貴重本もあるが、そのなかには先に挙げた『名言随筆サラリーマン』もある。著者はその本の閲覧を申し出たが、司馬家の申し入れで「見せられない」といわれたのだという。
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教科書とは真逆の「実生活」が
また、産経新聞の司馬氏の後輩で作家の三浦浩氏は「福田(司馬)さんは通勤の電車の中で、一人の女の子が気にかかるようになった」と記しているが、『司馬遼太郎とその時代』の延吉氏によれば「右引用中の出来事は、三浦氏によれば『昭和25年』のことで、定一好みの『女の子』というのは、のちのみどり(司馬)夫人だった」という。だが、’50年(昭和25年)といえば、まさに司馬氏が前妻と結婚した年なのだ。
司馬氏には「21世紀に生きる君たちへ」という小学校の国語の教科書にも掲載された一文がある。
〈君たちは、いつの時代でもそうであったように、自己を確立せねばならない。――自分に厳しく、相手にはやさしく。という自己を。〉
こういって司馬氏は〈助け合う気持ち〉や〈いたわりという感情〉を説いたが、実生活はどうなのか。
前出の馬場氏は指摘する。
「司馬遼太郎の政治的な発言や小説の内容については何も異議はない。しかし、最初の妻や息子がいるという事実を故意に隠したまま、人間の個人的な生き方についてえらそうな説教をするのはよくないのではないか。世の中には不幸にして妻子と別れるようなこともあるが、『自分にやさしく、相手に厳しく、他人の痛みを感じず、相手をいたわらなかった』では、教科書とは真逆だ」
司馬文学はいまも日本の文化や社会に多大な影響を及ぼしているだけに、いまからでも公表・訂正すべきではないだろうか。
こうテーミス記事にアルので記憶に残す。
。
政党の公約にもない・・ましてや4年間は増税はしない公約さえあるのに・・・
消費税10パーセントを急遽言い出すキチガイ総理さえ出現する時代ゆえこの国の文化水準はたかが知れている。
品よく言葉狩りナゾであそんでたら子や孫の世代には
この国はいかようになってることだろうか。
嗚呼・・・・・
松下塾の政治家に胡散臭さを直感するが如く
産経の出の記者にはなんか感じる爺目でアル。
・司馬遼太郎とその時代
・司馬遼太郎事典
・名言随筆サラリーマン
著作書は蔵書にも田舎ゆえか図書館にもない・・焚書?
○1931年6人乗り福岡大阪行き墜落最初の事故
○1965年日韓基本条約調印
○1998年平成10年金融監督庁発足、大蔵権限集中か ら分離するため。
○2002年モスクワ・チャィコスキー音楽祭
第12回(2002年)
ピアノ部門
第1位 上原彩子最高の栄誉
ほかに部門は違うが三人の最高の栄誉者
第9回(1990年)
ヴァイオリン部門
第1位 諏訪内晶子
第11回(1998年)
声楽部門第1位
佐藤美枝子
第13回(2007年)
ヴァイオリン部門
第1位 神尾真由子
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