100年

2004年6月2日
延岡七万石城下町で書かざる得ない状況までになっている。
夜12時になってからの宮崎から延岡への100kwの移動で、ようやく先ほど到着。深夜に遅き夕食。

12時過ぎてから書く環境さえも脅かされている今日この頃ここまで会社人間がどこに居ようぞ。

そういえば朝からいやな予感であった。あいつと朝一の仕事の約束をしていたからである。

昨夜の打ち合わせ通り、朝大先輩と私は待機しているのに何の連絡も無いので、TELをしてみると宮ガ○さんに着いていない。
家に居る。この人との約束は大変である。

最低「すみません。」が言葉で出るべきであろう。
この人の辞書には「すみません」はない。かのナポレオン以上である。

会社に来たのは9時30分過ぎ。しかしながら、この男は付いている。
何のお咎めも無いような情報である。

機密の防衛庁の情報分析である。後でトンでもない陳腐な情報であるのも知らず、必死の分析。

手分けして情報収集に走るが昼ごろにはガサネタに似たものであることがわかり始める。

それもそのはず、コヤツラなんら参加せず他のことをしている。腹も立たぬであろう。
踊らされた私はいい面の皮。やっていられない。

大山鳴動ねずみ一匹、バカッタレ!このクソ忙しい時期に一日棒に振ってしまった。

さらに、3ヶ月近く門柱を傷つけていたのをホタっているので処理を急がせると

ナント8万円もかけて、外部に委託していることがわかり急遽中止させる。  そんな無駄な金は無い。急遽他に依頼する。事故処理である。

二重在籍者の奴、バカ社長マタ騙されている。この二人の幹部たちにはタダタダ呆れるばかり。
ながさきの小6の殺人事件みたいな酷さなのである。

昨日の西都での営業が早速生きたのか電気温水器とIHクッキングヒーターの電話による工事依頼で、実にありがたい。金曜日、西都市である。

防衛庁の内訳を研究してみると二桁以上の件数があるが、手わけして受注に動く打ち合わせ。
能天気さんまったく違う仕事。

コヤツに「仕事の受注」の5文字はまったく関係なし。
会社の基本がわかっていない。

1週間程度の出社停止、でないと混乱の極地。こんなに毎日APAに迷惑をかけているんじゃやってはオレナイ。

円生演じる「百年目」の番頭さんなら、ひたすら恭順の意、
15代将軍慶喜の如き、ひたすらそれしかないはずなのに

なんらのお咎めなし。人生についている。100年目。

そう!100年目である。

文豪夏目漱石が英国での成果文学論1904年明治37年の100年前である。

ロンドンで研究半ばで衰弱し帰国するが文学論を表す。
のちに味の素を起こす池田早苗との交流でヒントをつかむ。
文学に科学を持ち込むのである。

帰国後、帝大教授に納まるが、高浜虚子の勧めで「ホトトギス」に投稿したのが洒脱な文章の「我輩は猫である。」

もちろん100年前の日露戦争も「猫」は見逃さない。

その後に文豪漱石が誕生する。1904年明治37年の100ねんまえである。

三越は1904年明治37年デパートメントストア宣言から100年.
文化と流行の発信者であった。・・・
変わる新宿あの武蔵野の月ももデパートの上に出る・・・
東京行進曲西条八十作詞古関裕二作曲にもデパートが登場する。

1952年昭和27年新しい歌作りに賭けた熱意はデパートがお客さんの希望、期待を総身に抱えていた証左。

社長たる岩瀬英一郎は全てを託した。

「ほれた私が悪いのか迷わすお前が悪いのか・・・・トンコトンコ」
このような愚劣な歌を排除したい。

依頼したときの社長の挨拶。
「私の歌です」消え入る古関に、おそらく困惑した挨拶者たる社長。
古関の回想録である。

文芸誌[新潮」6月号を買った。1904年明治37年5月今年で丁度100年。

時は明星の与謝野鉄幹全盛期の頃である。島村抱月の早稲田文学もある。

中央公論、太陽の総合雑誌もある。佐藤義亮。
前身は投稿誌新声で八年前の19歳の佐藤義助・(助は本名)

このときは投書雑誌で歌壇にスぺースを多く割いていた。
歌壇絵の投稿者の中には延岡中学校時代の若山牧水のなもある。

100年の礎は牧水の力があったのである。
その牧水が過ごした地にて、書いている。

100年の孤独の酒の琥珀はいい痺れである。
APAは百年後どうなってるのか。100年後である。

一時間後、齋○さんと天孫降臨の地に向かう。
皇紀は2654年である。

100年なんてナンテェ〜事はない。

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