夏の終焉

2004年7月31日
7月文月は土用の丑の日、大暑も含んだ厳しき環境の月で、親月、涼月と充て過酷な自然に対処した。

その晦日のどん尻の月末最終日の土曜日である。
斎〇さんと電気申請に備えてお客さん宅を青島、大塚台、
市内の〇エムラの現場と回った。

それにしても最近富みに月の変わりの感動がなくなってるのは私だけであろうか。

単なる翌日との連続で、その月代わりの興奮とか感動がない。

考えるにつけネットを覚えてから、深くそれが深厚しているのではないかと思える。

日本にしかない四季の移ろい。
万葉人の繊細さをもって生きていきたいものだ

食べ物にしても分けのわからぬものがメニューに登場した。
よく利用させてもらってる24時間営業店JOYFULLである。

タコライスなるものを食した。

鉄器の鍋に米をベースに豚肉、目玉焼き、カレー野菜のきざみ、トマトが彩りを添えている。

醤油ビンをお膳に乗っけて出てくる。ピリ辛味である。
お値段は499円と極めて経済価格。

JOYFULLは4人掛けがが30席ほとんど満席状態でスコブル回転もいい。

幼児がジュースを自分で注ぎ、雑踏状態である。
家族連れ、仲間内のみ、会話は弾み活力がみなぎっている。

ふるさとのなまりなつかし停車場にそをききにいく。

かって石川啄木の記憶である。

極貧の孤独な都会生活と望郷の念、憶の総てを癒した慟哭の歌を
この場に感じている私だが、その心境が食い入るように解る
今の自分の心境であるのであろう。

フリー・ドリンクなど自由闊達なお客さんの雰囲気である。
廉価の値段がいい。

ほんの少し高い似た経営のお店は閑古鳥が鳴いてるのと大違いだ。
かくも大きな差異がナゼに生じているのか。
この店にはフリー・ドリンクがなくいまだ採用されてない。

頑なに旧態依然の改善のない経営方針のようである。
常にときは連続して流れ、それも加速化している。
見失っているのではないだろうか。

我がAPAも似た状況にあるのに誰一人として意識さえしようともしない。

相変わらず、営業の充実は果たされず、利益率の悪い工事会社に移行しているのみである。

これほどまでに販売会社が増えてるのにきずかぬバカはあるまい。
バカに付ける薬なしである。

田舎モンの経営センスがないものは所詮解らぬもの。
釈迦に説法。

静かに見つめる余裕がなく多忙にすごしてるゆえでもあろう。
決断の時近し。このままではどうしようもない。

7月は科学者の記事が目立った。

ブラック・ホールの権威者ホーキング博士は宿阿の病気を乗り越えての名声をつとに高めているが自説を修整した。

その清さはよし。

http://www.mainichi-msn.co.jp/kagaku/science/news/20040716k0000m040070000c.html

遺伝子治療のノーベル賞科学者アンダーソン氏の報道には作為性を感じる。

http://www.mainichi-msn.co.jp/kagaku/medical/news/20040801k0000m030008000c.html

厚生省の医師免許剥奪もよ〜くは理解できない。
ましてやがんじがらめの医療社会現場の危険性さえ感ずる。

昨年だったか安楽死さえ問われた人のいい女性医師事件さえあった。

hhttp://www.mainichi-msn.co.jp/kagaku/medical/news/20040730k0000e040060000c.html

国会は手続きのみの8日の会期で昨日から始まったようだ。
マスコミは三味線を持って登院した議員とかパフーマンスのみを報道。

問われている敗北の責任を取らない青木、安部そして小泉流政治を見逃している。

橋本派の1億円!をこことばかりに、クローズ・アップして、すり替えようとの姿勢がありアリである。

秘書たる演出家飯島勲の思うままに運営されている。
一体この国は何処にいこうとしているのか。

議論の府たる国会の威厳はない。

思考の低下は暑さのせいばかりでなく、ここいらから人為的に発せられているからであろう。

めくらましの政治は社会のすみずみに蔓延しょう。

自民党最大派閥が終焉しようとしている。橋本派である。
ついに失脚に追い込まれた橋本竜太郎。

佐藤→田中→竹下→小渕派→橋本派(七日会・木曜クラブ・経世会)
つねに自民党政争の中心にあった派閥。

その代替わりにも必ずドラマがあった。
もともと吉田学校の優等生・佐藤栄作の率いる派閥で、番頭は田中角栄や保利茂であったが

佐藤が同じ官僚出身の福田赳夫を後継総裁に推そうとしていたことで田中の不満が爆発、

昭和47年田中派が旗揚げして同派の三分の二がこれに従った。
保利系は後福田派に合流する。

田中派は田中角栄個人の魅力と資金力・人脈で瞬く間に膨れ上がり、田中が金脈政変で退陣後もその数の力で「キングメーカー」と呼ばれた派閥であった。

しかし、長年総裁候補を出さず、他派を牛耳るという姿勢は次第に派内の不満を呼び、同派の後継者と目されていた竹下登と田中角栄の不和までが噂されるようになった。

昭和59年の二階堂副総裁擁立劇で、「鉄の如し」と言われた同派の結束力もガタが来ていることが証明され、翌年ついに金丸信・竹下登らは政策研究グループ「創政会」を旗揚げした。

田中はこれに激怒したが、直後に脳梗塞で倒れて政治活動ができない状態となった。

創政会は二年後、「経世会」と名を代え、正式に「竹下派」となる。
同年竹下は総理総裁となったが、リクルート事件によりわずか二年弱で退陣。

しかし同派の数の力で続く宇野政権・海部政権は支えられた。
竹下が第一線を退いたことで同派の実権は金丸信・小沢一郎が握ることになったが、これに不満を抱く橋本龍太郎らが対立するようになる
(一龍戦争)。

平成四年金丸の佐川急便事件が発覚する(翌年議員辞職、脱税容疑で逮捕)に及んでついに同派は分裂、

羽田孜・小沢一郎らは「改革フォーラム21」を結成して離脱、
経世会は橋本龍太郎・梶山静六らが擁立した小渕恵三が跡を継いだ。

翌年羽田・小沢らは脱党して新生党を結成、
政界再編の主役となり、

その後は橋本が総理総裁となるなど、現在でも「田中政治」の影響は色濃く残っている。

小渕政権時には元同志の小沢率いる自由党と連立内閣を形成した。
平成12年、小渕の急死に伴い、親友であった橋本元総理が派閥を束ねることとなった。

96年、それぞれの派閥に推薦された複数の候補が互いに争った中選挙区制から、党の1人の代表が他党の代表と戦う小選挙区制に変わった。

これに伴い公認権を握る執行部に権限が集中し、派閥の存在意義も薄れた。

小泉純一郎首相が唱えた「自民党をぶっ壊す」のスローガンは、
業界団体と深く結びついた橋本派への挑戦とも言え、
小泉流の派閥推薦を無視した人事は、最大派閥に所属するうまみをなくした。

派閥が求心力を維持するために必要と言われた「カネ」「リーダー」「ポスト」のいずれをとっても、橋本派は欠如する状態になった。

 「今の時代、中堅・若手は『派閥の効能』をほとんど感じていない」

橋本派以外にも共通する現象で、背景には中堅・若手の多くが超党派や超派閥の政策勉強会に軸足を置き始めたことがあげられる。

橋本派は当面、会長を空席にしたまま、青木幹雄参院議員会長を中心に派閥の立て直しをはかることになる。

 幹部の一人は「総裁候補を立てて結束をはかるか、9月の党役員人事で幹事長ポストを確保しない限り、派閥は空中分解する可能性がある」と語る。

 

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