今日の誕生日の花は・・・・・ヒヤシンス
花言葉は・・・・・・・・・・・控えめの愛

ユリ科の風信子、飛信子は地中海東部沿岸からイラン、トルクメニスタン付近の原産。
オスマン帝国で栽培され園芸化された。
スルタンムラト3世は1583年に山地から5万本のヒアシンスをイスタンブールに集めさせたという。
16世紀前半にはヨーロッパにもたらされ、イタリアで栽培された。
16世紀末にはイギリスに伝来し数百の品種が作られた。日本には1863年に渡来
庭以外にも鉢植えや水栽培などで観賞される。
、春先に香りのよい花を咲かせる。

ヒアシンスの名は、ギリシャ神話の美青年ヒュアキントスに由来する。
同性愛者であった彼は、愛する医学の神アポロン(彼は両性愛者であった)と一緒に円盤投げに興じていた
(古代ギリシャでは同性愛は普通に行われ、むしろ美徳とされていた)。
しかしその楽しそうな様子を見ていた西風の神ゼピュロス(彼もヒュアキントスを愛していた)は、
やきもちを焼いて、意地悪な風を起こした。
その風によってアポロンが投げた円盤の軌道が変わり、ヒュアキントスの額を直撃してしまった。
アポロンは医学の神の力をもって懸命に治療するが、その甲斐なくヒュアキントスは大量の血を流して死んでしまった。この血から生まれたヒヤシンス。
このエピソードゆえ「悲しみを超えた愛」の花言葉。
26日23時の電話  「わたしは仕事に厳しいですよ」♪
そいで今日になったがまたもや会えない。
27日17時電話宣言で茶髪解消での髪染には行っている。
27日22時30分「来れない」のいつものすっぽかしドタキャン。
いやぁ~またもや日延べ
、会い説明し請求書になる貼付ポスター箇所書類つくりが出来ない。
ヒヤシンスの水栽培でも話すすめてみるか。
富山からのラジオ深夜便を楽しんだ。
朝5時0,1度の寒さにあると言うが春はもうそこ。

春の海 終日(ひねもす)のたりゝかな

郵政民営化の閣僚・総理の食い違いをメディアが執拗にクローズアップ
新政権がヨチヨチ歩きでみておれない。・・・
その総理記者会見はこの国で初めて実現したことと皮肉なるモノ。
26日から会見を主催する内閣記者会(加盟104社)
、加盟社以外の記者にも参加を認めた。
昨年9月の鳩山政権発足後、雑誌や外国メディアの記者には出席を認めていたが
、今回はインターネット記者やフリー記者にも枠を広げ、質問も認めた。
http://www.asahi.com/politics/update/0326/TKY201003260444.html
オープン化にあわせ、これまで20~30分程度だった会見時間を1時間程度に延ばすことも決めた

内閣不一致をメディアが煽るゆえ国民常識に昇華していよう。
これが新政権の政治スタイルなのだ。
閣内不一致は死語なんでアル。
閣内対立は閣議活性化のチャンスなのだ
この爺目も含め政治に長きに関わってきた人ほどわからぬ常識のこと。
元全国誌記者の永田町異聞ブログで教えていただいた。
  こうアル。
「手本と仰ぐ経験則は存在しない」(ウォルフレン教授)
、鳩山政権は日本の変革に取り組もうとしている。
初めてのことに、混乱はつきもの。
些細なことを深刻にとらえるのではなく、大きな目で、政権を、政治家を育てる気概を国民が持つ必要がある。
そうでないと、政治主導への歩みは頓挫し、官僚機構のもくろみ通り、明治以来の官僚支配に逆戻りする。

国民に選ばれた政治家が構成する内閣のコントロールのもとに、官僚に具体的な政策を立案させ、
閣議における活発な議論を経て、その政策を閣議決定する。

ウォルフレン教授の言う初めてのこととは、「内閣主導」である。

そのあたりまえのプロセスを、これまでの日本の政権が踏んできていない。

自民党政権の政策決定。

政策立案を省庁に丸投げ
官僚が省庁間調整を済ませ
族議員に根回ししたあと、
自民党政調会の部会にはかる。

部会という密室で議論が交わされ、
総務会でも了承され、党議拘束。
そして、事務次官会議をへて、
法案は、自動的に閣議決定される。

閣議において大臣は花押という毛筆の署名をするだけ
議論に時間が割かれることはなかった。
閣議は完全にセレモニー化していた。

、25日来メディアが騒ぎ立てている「郵政閣内対立」
、亀井大臣のいささか性急な発表の仕方には疑問が残るものの、
他の閣僚から異論が噴出しているのは健全な姿である。

メディアは、閣内対立、迷走、首相のリーダーシップ不足などと、
官僚丸投げ時代と同じように面白可笑しく取り上げる
政治主導、内閣主導確立に至る産みの苦しみの過程として、
その試行錯誤の中身を深く掘り下げ、読者、視聴者に情報提供すべきである。

自民党政権時代に、閣僚どうしが対立する必要がなかったのは
、国民から姿の見えない官僚が様々な利害関係者に根回しをして
、話をまとめてから表に出していたからにほかならない。

そういう、官僚依存の政治のあり方が、官僚組織を肥大化させ、天下りその他の問題を生んできたからこそ
、国民は政権交代を選択した。

国民が選んだ政治家と、難関の試験をパスした官僚。
国民が国民主権を望むなら、政治家が官僚をコントロール下に置けるよう、国民は支援しなければならない。

たとえ不手際なことが続いても、めったやたらと自らが選んだ政権を批判し足を引っ張るのではなく、
監視しながらそれを育てていく姿勢もまた大切なことではなかろうか。

ともあれ、この郵政問題、大臣どうしが忌憚なく活発な議論を交してほしい。
互いの遠慮の壁を取り払い、閣議をホンモノの議論の場にするチャンスだ。

激論が予想される「閣議」によって、どのような結論が導き出されるのか、
しっかりと見守りたい。

23日午後の参院予算委員会で、日米同盟の在り方に関し鳩山由紀夫総理答弁
「イラクへの自衛隊派遣などで(日本は)従属的に行動していたと思えてならない」
とした上で
「米国にも言うべきことをはっきり言い、日本の進むべき安全保障を提案して、日米間で議論していくことが重要だ」
と強調した。
 首相就任前に唱えていた在日米軍の「常時駐留なき安保」については「その思いは消えていない」と強調した。
自民党 川口順子氏への答弁。共同通信発。
マスメディア報道にない普天間問題の解消策の秘策が推察されるが如何であろうや。

英検証委、ブッシュを喚問! 
「イラク戦争なんだったの!?」
イギリスのイラク戦争検証第三者委員会は、ブッシュ前大統領をはじめとする当時のホワイトハウス高官たちを証人喚問する。
その顔ぶれは、チェイニー前副大統領、ライス前国務長官、ラムズフェルド前国防長官など(記事はこちら)。
http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/northamerica/usa/7488615/Iraq-Inquiry-asks-to-question-George-Bushs-senior-officials.html
実現したらすごいこと。
実現しなくてもすごいこと。
アメリカの顔色を窺ってばかりで、「そんなことしたらアメリカを怒らせてしまう」が口癖のくにとは大違い。
このくにも早く委員会を立ち上げて、ブッシュを召還を決議するべきである。
エエッ!まだこの国の当時の指導者小泉純一郎の喚問がされてないので順序が違う。???

大阪地検特捜部が手がけた障害団体向けのDM不正融資事件、
当初、石井一・牧義夫両民主党国会議員を狙っていたと思われるが、「泰山鳴動してネズミ一匹」
どころか、そのネズミとされる村木厚子・元厚労省局長の公判では「無罪」証言が続出し
、まさに政治家逮捕のための“捨て石”にされた様相だ。
だが、「正義の検察」からすれば、政治家逮捕のためには“捨て石”は許されるようだ。
大阪地検特捜部は汚名挽回、
それより反省なしというべきか、
再び、今年1月から民主党代議士を狙って捜査を始め、
お決まりのリークと思われる情報に乗り、一部大手マスコミがすでに報じている。

またまた民主党追い落としスキャンダルが発覚。
以前、中井氏は検察・警察リークについて「査当局から一方的にリークされる記事しか書かないマスコミ。
そういう中では、冤罪の被害はこれからも出る」とキッパリと言ってのけていた。

民主党支持者以外でも検察とマスコミに対して疑問をもっていた良識ある国民は、
中井氏にたいして胸の透くような思いで拍手して、今後、国家公安委員長として、この問題に切り込んでいっくれると期待していたのではないだろうか。

今回のスキャンダルで感じたことは、まず予算が通り生方問題もイチオウ決着して、あとは事業仕訳で反転攻勢という
、このタイミングで出てきたこと。
中井氏は独身で山崎拓や中川秀直などのような不倫関係ではない。
ただの女性関係だけではスキャンダルとまでは言えないし、マスコミの立場に立てばネタとして広がりがないしインパクト
にも欠ける。そこで執拗に時間をかけて広がりが出るように、ちゃんと地震の時に一緒にいたなどの味付けをして
、一番効果的なこの時期に出してきたことを考えれば、見えてくるものもある。

また、中井氏が検察とマスコミに対して徹底抗戦の態度を見せていたことなどを俯瞰して見たときに、
やはり反民主党勢力、このまま民主党に改革をされては困る勢力が結束して、
次々と、しかも計画的に小出しに打ち出している、と感じる。
以前、中井氏の検察&マスコミ批判を報じた朝日新聞の記事。
「一方的なリーク記事、冤罪の被害出る」中井公安委員長 (朝日新聞2010年1月23日0時53分)
 ≪中井洽国家公安委員長は22日の閣議後の会見で、1990年に栃木県足利市で当時4歳の女児が殺害された事件の再審公判が開かれていることについて「今の自供中心の捜査、捜査当局から一方的にリークされる記事しか書かないマスコミ。
そういう中では、冤罪の被害はこれからも出る」と発言した。
 報道陣から「リークしか書かないマスコミとはどういう意味か」
    と問われると、
「捜査当局のリーク情報しか書かないマスコミと言った。ずっとそうじゃないか。一度被疑者になると徹底的に被疑者になるじゃないか」と語気を強め、
「10年、15年たってから名誉回復しても大変つらい。そういうことが起きないようにお互い気を付けてほしいと申し上げた」
と付け加えた。≫
中井洽国家公安委員長のスキャンダルには仕掛け人がいる
http://twitter.com/kuroki_akio/status/11019521152
中井大臣の動向を知る立場にある者のリークか!?
http://twitter.com/kuroki_akio/status/11019668963
議員宿舎に出入りできる者のリークであることは間違いなし。
http://twitter.com/kuroki_akio/status/11020483158
記者レベルでは、女性が中井大臣の部屋のカギを持っていた事を知りえない。
http://twitter.com/kuroki_akio/status/11026545681
ガードも厳しいしね RT @dpj_how: RT @igabin: @dpj_how 衆議院の事務局に問い合わせたら、カードキーがあっても、セキュリテイが居ますので安全には問題ありません。他の国会議員の身の安全が守られないという報道内容は、正しいものではありません。ということで

問題点は一点である。
つまり「誰が国家公安委員長をはめたのか」、である。
このスキャンダルは仕掛け人がいないと記者レベルではわからないカードキーの貸与などまでが報じられているからである。

今日発売された週刊新潮の特集に興味深い政治家スキャンダル記事が載っている。
中井洽国家公安委員長が30歳ほど年下の銀座のホステスと路上でキスをしている写真が数枚載っていて
、彼らは議員宿舎で密会し、ホステスには議員宿舎のカードキーも貸与していて保安上問題があり
、国家公安委員長として如何なものか、という内容である。

この記事の興味深い点は、国家公安委員長と銀座ホステスとの密会をスクープしたことではなく、議員宿舎のカードキー貸与による保安問題であるようだ。
なぜなら、中井国家公安委員長は数年前に奥さんを亡くしていて現在は独身であるから、
誰と色恋沙汰を起こそうが個人の裁量の範囲だからである。
それ故、30歳年下の銀座ホステスとの路上キス写真を入り口にして目を惹き、議員宿舎のカードキー貸与はけしからんという
流れを呼び起こそうとした構成となっている。
このスキャンダル報道は、事件にならないような事件を大げさに扱って、さも大事件が起きたように装い、
鳩山政権と小沢幹事長はじめ民主党全般に風説によるダメージを与えようとする工作のように思えて仕方ないのである。
これは先週起きた生方副幹事長の解任問題とは違って、販売部数の落ちた週刊誌を使った陰湿な仕掛けだろう。
生方問題は、生方本人が勝手にマスコミ相手に小沢批判を繰り返し、会話内容を無断で録音し公開するという、
自分で肥溜めに落ちていったのを利用されただけの話だが、今回は周到に仕組まれている。

何故繰り返されるのか。

鳩山政権潰しの動きに警告するウォルフレン論文
全文はこちらにある。
http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20100319-01-0501.html
元全国誌記者の永田町異聞というブログがある。
このブログを元に拡散運動がなされてるとのこと。
遅れてアップしたい。。
オランダ出身のジャーナリストで、アムステルダム大学教授、カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は
、ベストセラー「人間を幸福にしない日本というシステム」の著者。

国民自らの選択で初めて歴史的な政権交代を成し遂げたこの日本で、古い日本を守ろうとする官僚、検察、メディアが、
新しく誕生した政権を潰そうとしている動きに対し、
中央公論の最新号に寄稿した論文で重大な懸念を表明しておられる。

「日本政治再生を巡る権力闘争の謎」 

いま日本はきわめて重要な時期にある。真の民主主義をこの国で実現できるかどうかは、これからの数年にかかっている。内閣中心政権を確立することができるならば、あらゆる国々に対し、重要な規範を示すことになる。
 
 それを実現させるためには、険しい関門を突破しなければなるまい。国際社会で、真に独立した国家たらんとする民主党の理念を打ち砕こうとするのは、国内勢力ばかりではない。アメリカ政府もまたしかりである。

この世界に、望ましい政治のあり方を示そうとしているのが、他ならぬこの日本であるなどと、わずか数年前、筆者を含め誰に予測し得たであろうか。予測しがたいことが現実に起きた。

民主党政権発足後の日本で起こりつつある変化には、実は大半の日本人が考えている以上に大きな意味がある、と筆者は感じている。
   
民主党が行おうとしていることに、どのような意義があるのかは、明治時代に日本の政治機構がどのように形成されたかを知らずして、理解することはむずかしい。

当時、選挙によって選ばれた政治家の力を骨抜きにするための仕組みが、政治システムの中に意図的に組み込まれたのである。

民主党は、山県有朋によって確立された日本の官僚制度(そして軍隊)という、この国のガバナンスの伝統と決別しようとしているのである。
 
山県は、表向きに政治家に与えられている権力を、行使できなくなるような仕組みを導入したのだ。
 
山県が密かにこのような仕掛けをしたからこそ、日本の政治システムは、1930年代になって、軍官僚たちがこの国をハイジャックする方向へと進化していったのである。山県の遺産は、その後もキャリア官僚と、国会議員という、実に奇妙な関係性の中に受け継がれていった。
 
いま民主党が自ら背負う課題は、生易しいものではない。この課題に着手した者は、いまだかつて誰ひとり存在しないのである。手本と仰ぐことが可能な経験則は存在しないのである。

民主党の閣僚が、政策を見直そうとするたび、激しい抵抗に遭遇する。彼らに抵抗するのは、有権者ではない。旧態依然とした非民主主義的な体制に、がっちりと埋め込まれた利害に他ならない。
 
明治時代に設立された、議会や内閣といった民主主義の基本的な機構・制度は日本では本来の目的に沿う形で利用されてはこなかった。

そして現在、政治主導を可能にするような機構を、民主党はほぼ無から創り上げることを余儀なくされている。

これを見て、民主党の連立内閣の大臣たちが手をこまねいていると考える、気の短い人々も大勢いることだろう。

たとえば外務省や防衛省などの官僚たちは、政治家たちに、従来の省内でのやり方にしたがわせようと躍起になっている。
 
明治以来存続してきた日本の政治システムを変えることは容易ではない。システム内部には自らを守ろうとする強力なメカニズムがあるからだ。

一年ほど日本を留守にしていた筆者が、昨年戻ってきたさい、日本の友人たちは夏の選挙で事態が劇的に変化したと興奮の面持ちで話してくれた。

そのとき筆者は即座に「小沢を引きずり下ろそうとするスキャンダルの方はどうなった?」と訊ね返した。必ずそのような動きが出るに違いないことは、最初からわかっていたのだ。
 
日本の官僚機構に備わった防御機能は、まるで人体の免疫システムのように作用するからだ。

あらゆる国々は表向きの、理論的なシステムとは別個に、現実の中で機能する実質的な権力システムというべきものを有している。政治の本音と建前の差は日本に限らずどんな国にもある。

実質的な権力システムは、公式の政治システムの内部に存在している。
 
軍産複合体や巨大金融・保険企業の利益に権力が手を貸し、彼らの利害を有権者の要求に優先させた、この10年間のアメリカの政治など、その典型例だといえよう。
 
いまから19年前、日本で起きた有名なスキャンダル事件について研究をした私は『中央公論』に寄稿した。

その中で、日本のシステム内部には、普通は許容されても、過剰となるや、たちまち作用する免疫システムが備わっており、この免疫システムの一角を担うのが、メディアと二人三脚で動く日本の検察である、と結論づけた。
 
検察とメディアにとって、改革を志す政治家たちは格好の標的である。彼らは険しく目を光らせながら、問題になりそうなごく些細な犯罪行為を探し、場合によっては架空の事件を作り出す。

薬害エイズ事件で、厚生官僚に真実を明らかにするよう強く迫り、日本の国民から絶大な支持を得た菅直人は、それからわずか数年後、その名声を傷つけるようなスキャンダルに見舞われた。
 
さて、この日本の非公式な権力システムにとり、いまだかつて遭遇したことのないほどの手強い脅威こそが、現在の民主党政権なのである

実際の権力システムを本来かくあるべしという状態に近づけようとする動きほど恐ろしいことは、彼らにとって他にない。
そこで検察とメディアは、鳩山由紀夫が首相になるや直ちに手を組み、彼らの地位を脅かしかねないスキャンダルを叩いたのである。
 
日本の超法規的な政治システムが山県有朋の遺産だとすれば、検察というイメージ、そしてその実質的な役割を確立した人物もまた、日本の歴史に存在する。平沼騏一郎である。

彼は「天皇の意思」を実行する官僚が道徳的に卓越する存在であることを、狂信的とも言える熱意をもって信じて疑わなかった。山県のように彼もまた、国体思想が説く神秘的で道徳的に汚れなき国家の擁護者を自任していた。
 
1945年以降も、平沼を信奉する人々の影響力によって、日本の司法制度の改革は阻止された。

ある意味では現在の検察官たちの動きを
見ていると、そこにいまなお司法制度を政府という存在を超えた至高なる神聖な存在とする価値観が残っているのではないか、と思わせるものがある

オランダにおける日本学の第一人者ウィム・ボートは、日本の検察は古代中国の検閲(秦代の焚書坑儒など)を彷彿させると述べている。
 
 日本の検察官が行使する自由裁量権は、これまで多くの海外の法律専門家たちを驚かせてきた。

誰を起訴の標的にするかを決定するに際しての彼らの権力は、けたはずれの自由裁量によって生じたものである。
 
 ある特定人物に対して厳しい扱いをすると決めた場合、容疑者を参らせるために、策略を用い、心理的な重圧をかけ、さらには審理前に長く拘禁して自白を迫る。

検察官たちは法のグレーゾーンを利用して、改革に意欲的な政治家たちを阻もうとする。どんなことなら許容され、逆にどのようなことが決定的に違法とされるのかという区分はかなりあいまいである。たとえば、合法的な節税と違法な脱税の境界がさほど明確でない国もある。

ところで日本にはさまざまな税に関する法律に加えて、きわめてあいまいな政治資金規正法がある。検察はこの法律を好んで武器として利用する。

検察官たちの取り調べがいかに恣意的であるかを理解している日本人は大勢いる。それでもなお、たとえば小沢の支持者も含めて多くの人々が、彼が少なくとも「誠意ある態度」を示して、謝罪すべきだと、感じていることは確かだ。
 
 これなどまさに、非公式な権力システムと折り合いをつけるために要請される儀礼行為とも言えるだろう。儀礼の舞台は国会であり、また民主党内部でもあり、国民全般でもある。

新聞各紙は「世論が求めている」などと盛んに騒ぎ立てているが、本当のところはわからない。しかも詫びて頭を下げ、あるいは「自ら」辞任するとでもいうことになれば、そのような儀礼行為は、実際には非公式のシステムに対して行われるのである。
 
 体制に備わった免疫システムは、メディアの協力なくしては作用しない。なぜなら政治家たちを打ちのめすのは、彼らがかかわったとされる不正行為などではなく、メディアが煽り立てるスキャンダルに他ならないからだ。

検察官たちは絶えず自分たちが狙いをつけた件について、メディアに情報を流し続ける。そうやっていざ標的となった人物の事務所に襲いかかる際に、現場で待機しているようにと、あらかじめジャーナリストや編集者たちに注意を促すのだ。

捜査が進行中の事件について情報を漏らすという行為は、もちろん法的手続きを遵守するシステムにはそぐわない。しかし検察はあたかも自分たちが超法規的な存在であるかのように振る舞うものだ。 

日本の新聞は、筆者の知る世界のいかなるメディアにも増して、現在何が起こりつつあるかについて、きわめて均質な解釈を行う。

そしてその論評内容は各紙互いに非常によく似通っている。かくして、こうした新聞を購読する人々に、比較的大きな影響を及ぼすことになり、それが人々の心理に植えつけられるという形で、政治的現実が生まれるのである。

このように、日本の新聞は、国内権力というダイナミクスを監視する立場にあるのではなく、むしろその中に参加する当事者となっている。

有力新聞なら、いともたやすく現在の政権を倒すことができる。彼らが所属する世界の既存の秩序を維持することが、あたかも神聖なる最優先課題ででもあるかのように扱う、そうした新聞社の幹部編集者の思考は、高級官僚のそれとほとんど変わらない。
 
 いまという我々の時代においてもっとも悲しむべきは、先進世界と呼ばれるあらゆる地域で新聞界が大きな問題を抱えていることであろう。

商業的な利益に依存する度合いを強めた新聞は、もはや政治の成り行きを監視する信頼に足る存在ではなくなってしまった。日本の新聞はその点、まだましだ。

とはいえ、日本の政治がきわめて重要な変化の時を迎えたいま、新聞が信頼できる監視者の立場に就こうとしないのは、非常に残念なことだ。

これまで日本のメディアが新しい政府について何を報道してきたかといえば、誰の役にも立ちはせぬありふれたスキャンダルばかりで、日本人すべての未来にとって何が重要か、という肝心な視点が欠落していたのではないか。
 
 なぜ日本の新聞がこうなってしまったのか、原因はやはり長年の間に染みついた習性にあるのかもしれない。

普通、記者や編集者たちは長年手がけてきたことを得意分野とする。日本の政治記者たちは、長い間、自民党の派閥争いについて、また近年になってからは連立政権の浮沈について、正確な詳細を伝えようと鎬を削ってきた。
 
鳩山政権が成立後、連立を組んだ政党との間に生じた、現実の、あるいは架空の軋轢に、ジャーナリストたちの関心が注がれたのは不思議ではなかった。

だからこそ、日本のメディアは民主党の閣僚たちの間に、きわめてわずかな齟齬が生じたといっては、盛んに書き立てるのだろう。

自民党内部での論争や派閥抗争がジャーナリストたちにとって格好の取材ネタであったことは、筆者にもよく理解できる。なぜなら日本のいわゆる与党は、これまで話題にする価値のあるような政策を生み出してこなかったからだ。
 
 小泉は政治改革を求める国民の気運があったために、ずいぶん得をしたものの、現実にはその方面では実効を生まなかった。

彼はただ、財務省官僚の要請に従い、改革を行ったかのように振る舞ったにすぎない。だがその高い支持率に眼がくらんだのか、メディアは、それが単に新自由主義的な流儀にすぎず、国民の求めた政治改革などではなかったことを見抜けなかった。
 
 彼が政権を去った後、新しい自民党内閣が次々と誕生しては退陣を繰り返した。自民党は大きく変化した国内情勢や世界情勢に対処可能な政策を打ち出すことができなかった。

なぜなら、彼らには政治的な舵取りができなかったからだ。自民党の政治家たちは、単にさまざまな省庁の官僚たちが行う行政上の決定に頼ってきたにすぎない。

ところが官僚たちによる行政上の決定とは、過去において定められた路線を維持するために、必要な調整を行うためのものである。

つまり行政上の決定は、新しい路線を打ち出し、新しい出発、抜本的な構造改革をなすための政治的な決断、あるいは政治判断とは完全に区別して考えるべきものなのである。こうしてポスト小泉時代、新聞各紙が内閣をこき下ろすという役割を楽しむ一方で、毎年のように首相は代わった。
 
 このような展開が続いたことで、日本ではそれが習慣化してしまったらしい。実際、鳩山政権がもつかどうか、退陣すべきなのではないか、という噂が絶えないではないか。

たとえば小沢が権力を掌握している、鳩山が小沢に依存していると論じるものは多い。だがそれは当然ではないのか。政治家ひとりの力で成し遂げられるはずがあろうか。しかし論説執筆者たちは民主党に関して、多くのことを忘れているように思える。
 
 そして山県有朋以降、連綿と受け継がれてきた伝統を打破し、政治的な舵取りを掌握した真の政権を打ち立てるチャンスをもたらしたのは、小沢の功績なのである。

小沢がいなかったら、一九九三年の政治変革は起きなかっただろう。あれは彼が始めたことだ。小沢の存在なくして、信頼に足る野党民主党は誕生し得なかっただろう。そして昨年八月の衆議院選挙で、民主党が圧勝することはおろか、過半数を得ることもできなかったに違いない。
 
 小沢は今日の国際社会において、もっとも卓越した手腕を持つ政治家のひとりであることは疑いない。ヨーロッパには彼に比肩し得るような政権リーダーは存在しない。政治的手腕において、そして権力というダイナミクスをよく理解しているという点で、アメリカのオバマ大統領は小沢には及ばない。
 
 小沢はその独裁的な姿勢も含め、これまで批判され続けてきた。しかし幅広く読まれているメディアのコラムニストたちの中で、彼がなぜ現在のような政治家になったのか、という点に関心を持っている者はほとんどいないように思える。小沢がいなかったら、果たして民主党は成功し得ただろうか?
 
 民主党のメンバーたちもまた、メディアがしだいに作り上げる政治的現実に多少影響されているようだが、決断力の点で、また日本の非公式な権力システムを熟知しているという点で、小沢ほどの手腕を持つ政治家は他には存在しないという事実を、小沢のような非凡なリーダーの辞任を求める前によくよく考えるべきである。
 
 もし非公式な権力システムの流儀に影響されて、民主党の結束が失われでもすれば、その後の展開が日本にとって望ましいものだとは到底思えない。確固たる民主党という存在がなければ、さまざまな連立政権があらわれては消えていく、というあわただしい変化を繰り返すだけのことになる。

すると官僚たちの権力はさらに強化され、恐らくは自民党政権下で存在していたものよりもっとたちの悪い行政支配という、よどんだ状況が現出することになろう。

 民主党の行く手に立ち塞がる、もうひとつの重要な障害、日米関係に対しても、メディアはしかるべき関心を寄せてはいない。

これまで誰もが両国の関係を当然のものと見なしてきたが、そこには問題があった。それはアメリカ政府がこれまで日本を完全な独立国家として扱ってはこなかったことである。

ところが鳩山政権は、この古い状況を根本的に変えてしまい、いまやこの問題について公然と議論できるようになった。
 
 しかしオバマ政権はいまだに非自民党政権を受け入れることができずにいる。そのような姿勢を雄弁に物語るのが、選挙前後に発表されたヒラリー・クリントン国務長官やロバート・ゲーツ国防長官らの厳しいメッセージであろう。

沖縄にあるアメリカ海兵隊の基地移設問題は、アメリカ政府によって、誰がボスであるか新しい政権が理解しているかどうかを試す、テストケースにされてしまった。
 
 アメリカ政府を含め、世界各国は長い間、日本が国際社会の中でより積極的な役割を果たすよう望んできた。日本の経済力はアメリカやヨーロッパの産業界の運命を変えてしまい、またその他の地域に対しても多大な影響を及ぼした。
ところが、地政学的な観点からして、あるいは外交面において、日本は実に影が薄かった。「経済大国であっても政治小国」という、かつて日本に与えられたラベルに諸外国は慣れてしまった。

そして、そのような偏った国際社会でのあり方は望ましくなく、是正しなければいけないと新政府が声を上げ始めたいまになって、アメリカ人たちは軍事基地のことでひたすら愚痴をこぼす始末なのだ。
 
 日本の検察が、法に違反したとして小沢を執拗に追及する一方、アメリカは2006年に自民党に承諾させたことを実行せよと迫り続けている。このふたつの事柄からは、ある共通点が浮かび上がる。両者には平衡感覚とでもいうものが欠落しているのである。
 
 長い間留守にした後で、日本に戻ってきた昨年の十二月から今年の二月まで、大新聞の見出しを追っていると、各紙の論調はまるで、小沢が人殺しでもしたあげく、有罪判決を逃れようとしてでもいるかのように責め立てていると、筆者には感じられる。

小沢の秘書が資金管理団体の土地購入を巡って、虚偽記載をしたというこの手の事件は、他の民主主義国家であれば、その取り調べを行うのに、これほど騒ぎ立てることはない。

まして我々がいま目撃しているような、小沢をさらし者にし、それを正当化するほどの重要性など全くない。しかも検察は嫌疑不十分で小沢に対して起訴することを断念せざるを得なかったのである。

なぜそれをこれほどまでに極端に騒ぎ立てるのか、全く理解に苦しむ。検察はバランス感覚を著しく欠いているのではないか、と考えざるを得なくなる。
 
 しかもこのような比較的些細なことを理由に民主党の最初の内閣が退陣するのではないか、という憶測が生まれ、ほぼ連日にわたって小沢は辞任すべきだという世論なるものが新聞の第一面に掲載されている様子を見ていると、たまに日本に戻ってきた筆者のような人間には、まるで風邪をひいて発熱した患者の体温が、昨日は上がった、今日は下がったと、新聞がそのつど大騒ぎを繰り広げているようにしか思えず、一体、日本の政治はどうなってしまったのかと、愕然とさせられるのである。

つい最近、筆者が目にした日本の主だった新聞の社説も、たとえ証拠が不十分だったとしても小沢が無実であるという意味ではない、と言わんばかりの論調で書かれていた。

これを読むとまるで個人的な恨みでもあるのだろうかと首を傾げたくなる。日本の未来に弊害をもたらしかねぬ論議を繰り広げるメディアは、ヒステリックと称すべき様相を呈している。
 
 普天間基地の問題を巡る対応からして、アメリカの新大統領は日本で起こりつつある事態の重要性に全く気づいていないのがわかる。

オバマとその側近たちは、安定した新しい日米の協力的な関係を築くチャンスを目の前にしておきながら、それをみすみすつぶそうとしている。それと引き換えに彼らが追求するのは、アメリカのグローバル戦略の中での、ごくちっぽけなものにすぎない。
 
 当初は、世界に対する外交姿勢を是正すると表明したのとは裏腹に、オバマ政権の態度は一貫性を欠いている。

昨年、日本では、1950年代以来、最大規模の権力の移転が起きた。そして民主党は、いくつかの事柄に関して、もはや二度と後戻りすることができないほどに、それらを決定的に変えた。

しかしながら、だからといって民主党の権力が強化されたわけではない。民主党はこれからもたび重なる試練に立ち向かわねばならぬだろう。
 
 もし鳩山内閣が道半ばにして退陣するようなことがあれば、それは日本にとって非常に不幸である。

自民党が政権を握り、毎年のように首相が交代していた時期、一体何がなされたというのか? もし、またしても「椅子取りゲーム」よろしく、首相の顔ぶれが次々と意味もなく代わるような状況に後退することがあっては、日本の政治の未来に有益であるはずがない。
 
 民主党の力を確立するためには、当然、何をもって重要事項とするかをはき違えた検察に対処しなければならず、また検察がリークする情報に飢えた獣のごとく群がるジャーナリストたちにも対応しなければなるまい。 

いま我々が日本で目撃しつつあり、今後も続くであろうこととは、まさに権力闘争である。これは真の改革を望む政治家たちと、旧態依然とした体制こそ神聖なものであると信じるキャリア官僚たちとの戦いである。

しかしキャリア官僚たちの権力など、ひとたび新聞の論説委員やテレビに登場する評論家たちが、いま日本の目の前に開かれた素晴らしい政治の可能性に対して好意を示すや否や、氷や雪のようにたちまち溶けてなくなってしまう。

世の中のことに関心がある人間ならば、そして多少なりとも日本に対して愛国心のある日本人であるならば、新しい可能性に関心を向けることは、さほど難しいことではあるまい。 

日米関係に目を転じるならば、そこにもまたきわめて興味深い権力のダイナミクスが存在しており、日本に有利に事態の解決を図ることができると筆者は考えている。

世界の二大先進パワーは、きわめてユニークな形で連携している。日米関係に類似したものは、世界のどこにも存在しないだろう。
 
 鳩山が対米外交において失策を重ねていると批判する人々は、ことアメリカとの関係においては正常な外交というものが存在しない事実を見過ごしにしている。

なぜならアメリカはこれまでも日本を、外交には不可欠な前提条件であるはずの真の主権国家だとは見なしてこなかったからである。

そして日本は最後にはアメリカの望み通りに従うと、当然視されるようになってしまったのだ。鳩山政権は、これまで自民党が一度として直視しようとはしなかったこの現実に取り組む必要がある。
 
 誰もがアメリカと日本は同盟関係にあると、当然のように口にする。しかし同盟関係の概念が正しく理解されているかどうかは疑わしい。

同盟関係とは、二国もしくはそれ以上の独立国家が自主的に手を結ぶ関係である。ところがアメリカとの同盟関係なるものが生じた当時の日本には、それ以外の選択肢はなかった。

第二次世界大戦後の占領期、アメリカは日本を実質的な保護国(注:他国の主権によって保護を受ける、国際法上の半主権国)とし、以後、一貫して日本をそのように扱い続けた。

また最近ではアメリカは日本に他国での軍事支援活動に加わるよう要請している。実質的な保護国であることで、日本が多大な恩恵を被ったことは事実だ。日本が急速に貿易大国へと成長することができたのも、アメリカの戦略や外交上の保護下にあったからだ。
 
 しかしこれまで日本が国際社会で果たしてきた主な役割が、アメリカの代理人としての行動であった事実は重い意味を持つ。

つまり日本は、基本的な政治決定を行う能力を備えた強力な政府であることを他国に対して示す必要はなかった、ということだ

これについては、日本の病的と呼びたくなるほどの対米依存症と、日本には政治的な舵取りが欠如しているという観点から熟考する必要がある。

民主党の主立った議員も、そしてもちろん小沢もそのことに気づいていると筆者には思われる。だからこそ政権を握った後、民主党は当然のごとく、真なる政治的中枢を打ち立て、従来のアメリカに依存する関係を刷新しようとしているのだ。
 
だが問題は厄介さを増しつつある。なぜなら今日のアメリカは戦闘的な国家主義者たちによって牛耳られるようになってしまったからだ。

アメリカが、中国を封じ込めるための軍事包囲網の増強を含め、新しい世界の現実に対処するための計画を推進していることは、歴然としている。そしてその計画の一翼を担う存在として、アメリカは日本をあてにしているのである。
 
 かくしてアメリカにとって沖縄に米軍基地があることは重要であり、そのことにアメリカ政府はこだわるのである。

しかしアメリカという軍事帝国を維持するために、それほどの土地と金を提供しなければならない理由が日本側にあるだろうか? 日本の人々の心に染み付いた、アメリカが日本を守ってくれなくなったらどうなる、という恐怖心は、1989年以来、一変してしまった世界の状況から考えて、ナイーブな思考だとしか評しようがない。
 
 筆者は、日本がアメリカを必要としている以上に、アメリカが日本を必要としているという事実に気づいている日本人がほとんどいないことに常に驚かされる。

とりわけ日本がどれほど米ドルの価値を支えるのに重要な役割を果たしてきたかを考えれば、そう思わざるを得ない。しかもヨーロッパの状況からも明らかなように、アメリカが本当に日本を保護してくれるのかどうかは、きわめて疑わしい。
 
 まったく取るに足らない些細な出来事が、何か強大なものを動揺させるとすれば、それはそこに脅しという権力がからんでいるからだ。

アメリカが日本に対して権力を振るうことができるとすれば、それは多くの日本人がアメリカに脅されているからだ。彼らは日本が身ぐるみはがれて、将来、敵対国に対してなすすべもなく見捨てられるのではないか、と恐れているのだ。
 
 そして日本の検察は、メディアを使って野心的な政治家に脅しをかけることで、よりよい民主国家を目指す日本の歩みを頓挫させかねない力を持っている。
 
 この両者は、日本の利益を考えれば、大いなる不幸と称するよりない方向性を目指し、結託している。

なぜなら日本を、官僚ではなく、あるいは正当な権力を強奪する者でもない、国民の、国民による、そして国民のための完全なる主権国家にすべく、あらゆる政党の良識ある政治家たちが力を合わせなければならない、いまというこの重大な時に、検察はただ利己的な、自己中心的な利益のみを追求しているからである。

そしてその利益とは、健全な国家政治はどうあるべきか、などということについては一顧だにせず、ただ旧態依然とした体制を厳格に維持することに他ならないのである。
 
 日本のメディアはどうかと言えば、無意識のうちに(あるいは故意に?)、現政権が失敗すれば、沖縄の米軍基地問題に関して自国の主張を押し通せると望むアメリカ政府の意向に協力する形で、小沢のみならず鳩山をもあげつらい(やったこと、やらなかったことなど、不品行と思われることであれば何でも)、彼らの辞任を促すような状況に与する一方である。

しかし彼らが辞任するようなことがあれば、国民のための主権国家を目指す日本の取り組みは、大きな後退を余儀なくされることは言うまでもない。
 
 日本の新政権が牽制しようとしている非公式の政治システムには、さまざまな脅しの機能が埋め込まれている。何か事が起きれば、ほぼ自動的に作動するその機能とは超法規的権力の行使である。このような歴史的な経緯があったからこそ、有権者によって選ばれた政治家たちは簡単に脅しに屈してきた。
 
鳩山政権にとっては、アメリカの脅しに屈しないことが、きわめて重要である。日本に有利に問題を解決するには、しばらくの間は問題を放置してあえて何もせず、それよりも将来の日米関係という基本的な論議を重ねていくことを優先させるべきである。
 
 アメリカがこの問題について、相当の譲歩をせず、また日米両国が共に問題について真剣に熟考しないうちは、たとえ日本が五月と定められた期限内に決着をつけることができなかったとしても、日本に不利なことは何ひとつ起こりはしない。
 
 
九州地区ブログランキング参加!
応援よろしくお願いいたします。

          ♪♪
       マウスクリック
        ↓ ↓ ↓
http://blog.with2.net/link.php?62076

        ♪ ♪ 

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索