きょうの誕生日の花は・・・スイセン
花言葉は・・・・・・・・・自己愛・崇高
白黄緑の花のスイセン。
寒さの中、凛と咲く清楚さ。
すいせんや 母の好みし 黄八丈
親孝行 石に布団は 着せられず
野球チームが出来るほどの子だくさんの末っ子は両親との時間は少なかった。
ただそれはいいわけに過ぎない。
8日は大相撲巡業の西都場所であった。
唯一のオヤジ孝行は巡業の高鍋場所に招待させたことぐらい。ただ、仕事と社会改革運動と多忙すぎ食事さえ同行した覚えさえない。
1941年12月8日ラジオが堰を切ったようガーガーとなった。
「臨時ニュースヲ申シアゲマス。臨時ニュースヲ申シアゲマス。」
「帝国陸空海軍ハ 本日未明 米英軍ト戦争状態ニ入レリ」
真珠湾攻撃の奇襲作戦である。
連合艦隊司令長官の山本五十六(1884〜1943年)は新潟長岡の人。
その真珠湾攻撃を指揮した。
「リ・ーメンバー・パール・ハーバー」は
9・11テロ以前の米国民の一番知ってる言葉の一つ。
山本五十六の語録はいまも海兵隊で用いられている。
「やってみせ 言って聞かせて させて見せ ほめてやらねば 人は動かじ」
「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず」
「やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」
「苦しいこともあるだろう 言い度いこともあるだろう 不満なこともあるだろう 腹の立つこともあるだろう 泣き度いこともあるだろう これらをじっとこらえてゆくのが 男の修行である」
「男の修行」は格言として評価が高く、座右の銘としている経営者や指導者は多い。
この「やってみせて…」の原点は日向の国・秋月藩から上杉家に婿養子入りした上杉鷹山の言葉に由来する。
アメリカ着任時、日本では専売指定されていた砂糖と塩がともにプラントで大量生産され市井で大量消費されていることをワシントンの喫茶店で身をもって知り、彼我の物量の圧倒的な差にショックを受ける。
後に軍縮会議出席のため渡米中、山本がコーヒーに多量の砂糖を入れて飲むのを見た同席者が「ずいぶん甘党ですね」と声をかけると、「できるだけ(仮想敵である)アメリカの物資を使ってやるんだ」と冗談半分に答えたという。
他人に揮毫を頼まれた時は「常在戦場」と好んで書いている山本五十六の心意気や、よし!人生の師である。。
ところでこの山本五十六の山本家のことである。
これが人生の奇縁でで満ちあふれている。
一転危険水域に凋落した麻生内閣にも関係してくるのであるから12/8はいまだ日米開戦のトラウマを引きづっている。
承知の麻生総理の出自、佳麗なるプリンスの血筋が言われている。
大久保利通と妻・満寿子の二男として鹿児島で生れた牧野 伸顕(のぶあき、文久元年10月22日(1861年11月24日) - 昭和24年(1949年)1月25日)
(幼名は伸熊)。生後間もなく利通の義理の従兄弟にあたる牧野吉之丞の養子となる。
明治4年(1871年)、11歳にして父や兄とともに岩倉遣欧使節団に加わって渡米.
山本、西園寺内閣でそれぞれ文部外務大臣を務める。
西園寺公望首席の第一次大戦後のパリ講和条約の次席で実質采配をふるう。
随行員に近衛文麿・女婿吉田茂などが名をなしている。
妻・峰子は宮崎県官選知事も努めた三島通庸の二女。
生命の受け継ぎは次の如くである。
長男: 伸通
長女: 雪子(吉田茂に嫁ぐ) 孫: 吉田健一(作家) 孫: 和子(麻生太賀吉に嫁ぐ)
二女: 利武子(宮崎県の秋月種英に嫁ぐ) 孫: 秋月英子(武見太郎に嫁ぐ)
麻生太賀吉の長男 太郎、次男 次郎 - 学習院大学ヨット部で活動中に事故死
三男 泰(アソウ・ヒューマニーセンター代表兼麻生セメント社長)
三女 寬仁親王妃信子
従兄 大井廣介(麻生賀一郎)(文芸評論家)
吉田茂が総理の多忙を極めて時期に宮崎・高鍋町秋月家を訪ねている律儀さ。
この高鍋町は名君の学問を好む風土からこのブログで何度となく触れてるが日本史に残る偉人を各界に輩出している。
話を戻すが山本家のことである。
山本家は源満政を祖とする清和源氏の一流である。
三河の小豪族として成長し桶狭間の合戦後に
徳川家康が岡崎に自立して三河を平定していくなかで、
永禄8年(1565年)牧野家と山本家は共に家康に臣従、直参旗本となった。
天正年間、山本成行のときに、家康直参のまま上州大胡藩の藩主となっていた牧野康成に与力し牧野家の家臣となった。
元和4年(1616年)に牧野家が越後長岡藩主に加増移封されると、山本家は上席家老連綿=上席家老職を世襲する家に定着した。
幕末大政奉還後の越後長岡藩は官軍に敗北。
藩主は新興の筆頭家老・河井継之助と譜代の上席家老・山本帯刀を反乱の首謀者として報告し恭順した。
河井は敗走中に病死、山本は捕われて処刑され、両家はともに家名断絶となる。
維新後牧野家では、家祖の代から深いつながりがあった山本家の家名再興を使命として代々尽力することになる。
明治17年(1884年)にいったん再興されたが、戸籍内に男子がない「女戸」とされ、その女子も死亡すると廃家となった。
大正4年(1915年)、旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男・五十六が海軍大学を修了して、海軍で佐官以上の地位が約束され、牧野忠篤子爵はこの31歳になる高野五十六が山本家を相続し家名を再興。
高野家は元々信濃上田藩の家臣。慶安元年(1648年)高野七左衛門のときに牧野家に再仕官し、40石の馬廻り衆(中級藩士)となった。その後延享年間に高野秀右衛門が家老・山本勘右衛門の補佐をし以後代々高野家は山本家と深い関係を持つ
河井・山本の両家が廃絶となると、代わって戦後処理で活躍した。
日向・延岡藩は三浦牧野内藤とつづいた。
九州では内藤家は唯一の譜代大名。
なにゆえか、おそらく徳川幕府の狙いは薩摩藩にむけた幕府の砦ゆえの配置であったのであろう。
この牧野家の転封さきが常陸笠間藩。1747(延享4)年のことである。
牧野成貞の三男が1719(享保4)年、年長の甥の日向延岡藩主牧野成央の急養子となり、延岡8万石を相続した経緯もある。
下って笠間牧野家から長男忠敬は越後長岡の牧野本家の養子となる。
次男は早世したため、家督は三男貞長が相続した。
笠間牧野家は幕政においては老中阿部伊勢守正弘を支えて主に海防を担当。
1853(嘉永6)年のペリー来航とそれに続く日米和親条約の締結に当たった。
藩政においては、1843(天保14)年に老中水野忠邦の上知令により領内の新潟港を上知され、それ以降藩財政は窮乏した。
1857(安政4)年の阿部の死後老中を退き、翌年60歳で没した。家督は養子忠恭が継承した
笠間牧野家のその後は連綿と歴史の表舞台で日本の歴史にあらわれ、支持率急落の麻生内閣に至っている。
旧笠間藩主家の華族は、2家ある。まず旧藩主家が華族に列し子爵となった。
次に内大臣大久保利通の次男。後に常陸笠間藩牧野家を継承して牧野を称した。
1871(明治4)年からのいわゆる岩倉使節団に同行して洋行、帰国後は外務省に入る。
以降は前述したとおり。
昭和に入るとその自由主義的思想から軍部などに敵視され、1935(昭和10)年に内大臣を辞し、翌年の二/二六事件の際には湯河原の別荘を襲撃されたが、脱出して危機を逃れた。
天皇の信任厚く伯爵でその直系子孫は、学習院高等科・中等科数学科教諭となった。
1949(昭和24)年、千葉田中にて89歳で没した。
牧野家は、館林藩主徳川綱吉(15万石、後に10万石加増)の家老や、
5代将軍・徳川綱吉の側用人となった牧野成貞の後裔である。
日向国延岡藩より江戸に比較的近い笠間藩に移封を成功させた牧野貞通。
その3人の男子(忠敬、忠利、忠寛)を、越後長岡藩主に養子として出した。
以後笠間藩は、越後長岡藩の支藩として牧野家の領有で固定され、明治維新を迎える事となる
牧野忠敬は 江戸時代中期 の大名。越後長岡藩の第6代藩主。長岡藩系牧野家宗家7代。
( 享保14年1729年6月 ~ 延享5年6月29日1748年7月24日)
笠間藩から越後国長岡藩主の養子にいる。
生命の受け継ぎはつぎのとおり。
父母 父:牧野貞通、母:本庄氏
養父:牧野忠周
兄弟 牧野忠敬、牧野貞長、牧野忠利、
牧野忠寛
妻 正室:牧野忠寿の娘・直君(明仙院)
子 実子なし
養子:牧野忠利
享保14年(1729年)6月、日向延岡藩主・牧野貞通の長男として延岡で生まれる。
元文4年(1739年)6月6日、第5代藩主・牧野忠周の養嗣子となる。
寛保3年(1743年)12月に従五位下、駿河守に叙任する。
延享3年(1746年)4月4日、忠周が隠居したため、家督を継いで藩主となる。
2年後の延享5年(1748年)6月29日、江戸で死去した。
越後国長岡藩にはどこにでもあるお家騒動があった。
牧野秀成の粛正のことである。
秀成は通称主水正、江戸の兄忠成が初めて長岡入りする寛永7年(1630年)までは、
長岡に在って兄の留守を守り、家臣に人望があった。
それが過剰となり、家臣団の中に秀成を担いで派を競う動きがあったともいわれ、
忠成の上意により自害させられたとも、誅殺されたとも伝えられる。
これに関係があるかの如き事もある。
寛永14年(1637年)6月6日の彼の死の直後の6月22日に兄忠成の嫡男光成が急死し、その後の牧野家内の継嗣争いに発展する。
葬地は栃尾組椿沢(現見附市)の椿沢寺にある。法名は冷光院殿覚了幻心居士。
のちには弥彦神社の旧末社五所宮の祭神として牧野出羽守保成等三柱と共に牧野秀成も祀られていた。
主祭神大己貴命に加えての牧野家関係者四柱を祀ったのはその怨念を鎮めるためとも云う。
なぜに秀成の事までを挿入したか。
愚息を見いだしたからである。
牧野家の笠間への移封によって伝わった剣術がある。
幕末新撰組さえ恐れた薩摩藩の秘術・示現流は、唯心一刀流と並んで笠間藩の剣術の二大流派。
この系統の示現流は周囲の藩にも伝わり、現在の土浦市、石岡市、宇都宮市、鹿島、久慈郡等に伝わった。
日向・鵜戸の剣の聖地に並ぶ鹿島につたわる奇縁。
この系統は「笠間示現流」とも呼ばれる。
現在でも笠間には示現流の形が伝わっている。
笠間で現在伝わっている示現流では立木打ちは行われていないが、土浦市真鍋地区では昭和中ごろまで立木打ちが行われていた記録
示現流は薩摩藩を中心に伝わった古流剣術。流祖は東郷重位。
本来は薩摩藩及び分家の佐土原藩以外の者に伝授することを厳しく禁じられていた御留流である。薩摩藩内では江戸後期に島津斉興より御流儀と称された。
関東の笠間藩に伝わった流れは、佐土原藩経由で延岡藩に伝わり、延岡藩主だった牧野家が常陸の笠間に転封になった事から、笠間まで伝わったようである。
薩摩の流祖の東郷重位は、元々はタイ捨流を学んでいたが、京都で善吉和尚より天真正自顕流を相伝し
両流派の利点を創意工夫した上で新流派を立てた。
「示現流」という流派名は日向南郷の出・南浦文之による命名である。
あの日本一・アジアチャンピオン西武のキャンプ地である。
剣聖の日向の地で世界記録のホームランの王貞治の一本足打法は生まれた。
師・荒川とともにバットでなく日本刀の真剣を振りさらに切り、毎晩の収斂で生み出した打法である。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』よりの引用記述である。
山本五十六は日米開戦を嫌った。
国力差を20VS1とみていたゆえだ。
国家情勢の前に短期決戦なら勝てると奏上せざる得なくなりその道に賭け連合艦隊司令官の職も請けた。
長岡空襲は、当地が山本五十六の故郷であったというだけの理由で行われたとも言う。
米国公文書館に山本五十六の故郷が新潟県長岡であるとの記録が残るのみで確かな根拠はない。
しかしながら、米国マスコミでの軍関係者が、国民の戦意喪失のために空襲をしたとエピソードを語っている映像がTVで報道されたことがある。
また長岡空襲を紹介した書籍・文献などに山本五十六の故郷だから、空襲が行われたともいうとの記述が散見されてるらしい。
長岡空襲は、市民を怯えさせるように大量の焼夷弾がB-29から落とされて、市内の約8割を焼き尽くしたが、軍施設・公共施設より市街地が中心に狙われるなど、一般の空襲と目的が違っていたことが伺える
。但し、当時の長岡市には、理化学研究所(理研)の研究施設があり、長岡空襲は、この理研の施設を攻撃することが目的であったとも言われている。
山本五十六の右腕に黒島亀人があり、自身の戦死の寸前の頃まで長く手元に置いた。。
「同じ参謀が作戦を練っていたのでは、手の内が見破られる」との忠告もあり、戦略家としては否定する理由に挙げている。
ただし、山本は戦死の直前、「黒島を他の者に代えようと思う。誰が良いと思うか」と最後の連合艦隊司令官・小沢治三郎に相談していた、と言われている。
最後の提督・小沢治三郎は日向・高鍋のヒト。
山本語録のネタの上杉鷹山の出自の秋月藩である。
小沢高鍋町長はその孫に当たる。
生業の弁当屋さん仕出し屋さんを奥さんに任せて郷土の発展に汗をかいている。
苦労人の独学で作った憧れの高校生活「高校三年生」等の生みの親の日本人の琴線を揺り動かした遠藤実もたしか牧野山本家と同じ越後のヒトであったとの記憶。
40年の生涯を閉じたきょうのジョン・レノン。
さいたま市のジョン・レノン・ミュージアムが設けた献花台には今年もファンが花を供える。
「イマジンは20世紀の歌だが、21世紀にはさらに価値が高まっていこう。
平和の歌が輝きを増すのは悲しい話でもある。
ジョンの歌を愛する歌手の忌野清志郎も、独自に意訳した詞でイマジンを歌い継ぐ。
ガンに冒された声帯から声を絞り出す。
「21世紀になったら世界が平和になると思ったのに、ますますひどくなる。ジョンが生きていたら今の状況をどう思うんだろう」
。ステージで彼はそう語っている。
特殊なる能力のミュージシャンは人類の未来が見えてるのか。
一年中のウソが供養されと言われてる日。。
いわれに従い豆腐を食した。
おおぼらふきともいわれてる博打好きの山本五十六も食したんであろうか。
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寒さの中、凛と咲く清楚さ。
すいせんや 母の好みし 黄八丈
親孝行 石に布団は 着せられず
野球チームが出来るほどの子だくさんの末っ子は両親との時間は少なかった。
ただそれはいいわけに過ぎない。
8日は大相撲巡業の西都場所であった。
唯一のオヤジ孝行は巡業の高鍋場所に招待させたことぐらい。ただ、仕事と社会改革運動と多忙すぎ食事さえ同行した覚えさえない。
1941年12月8日ラジオが堰を切ったようガーガーとなった。
「臨時ニュースヲ申シアゲマス。臨時ニュースヲ申シアゲマス。」
「帝国陸空海軍ハ 本日未明 米英軍ト戦争状態ニ入レリ」
真珠湾攻撃の奇襲作戦である。
連合艦隊司令長官の山本五十六(1884〜1943年)は新潟長岡の人。
その真珠湾攻撃を指揮した。
「リ・ーメンバー・パール・ハーバー」は
9・11テロ以前の米国民の一番知ってる言葉の一つ。
山本五十六の語録はいまも海兵隊で用いられている。
「やってみせ 言って聞かせて させて見せ ほめてやらねば 人は動かじ」
「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず」
「やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」
「苦しいこともあるだろう 言い度いこともあるだろう 不満なこともあるだろう 腹の立つこともあるだろう 泣き度いこともあるだろう これらをじっとこらえてゆくのが 男の修行である」
「男の修行」は格言として評価が高く、座右の銘としている経営者や指導者は多い。
この「やってみせて…」の原点は日向の国・秋月藩から上杉家に婿養子入りした上杉鷹山の言葉に由来する。
アメリカ着任時、日本では専売指定されていた砂糖と塩がともにプラントで大量生産され市井で大量消費されていることをワシントンの喫茶店で身をもって知り、彼我の物量の圧倒的な差にショックを受ける。
後に軍縮会議出席のため渡米中、山本がコーヒーに多量の砂糖を入れて飲むのを見た同席者が「ずいぶん甘党ですね」と声をかけると、「できるだけ(仮想敵である)アメリカの物資を使ってやるんだ」と冗談半分に答えたという。
他人に揮毫を頼まれた時は「常在戦場」と好んで書いている山本五十六の心意気や、よし!人生の師である。。
ところでこの山本五十六の山本家のことである。
これが人生の奇縁でで満ちあふれている。
一転危険水域に凋落した麻生内閣にも関係してくるのであるから12/8はいまだ日米開戦のトラウマを引きづっている。
承知の麻生総理の出自、佳麗なるプリンスの血筋が言われている。
大久保利通と妻・満寿子の二男として鹿児島で生れた牧野 伸顕(のぶあき、文久元年10月22日(1861年11月24日) - 昭和24年(1949年)1月25日)
(幼名は伸熊)。生後間もなく利通の義理の従兄弟にあたる牧野吉之丞の養子となる。
明治4年(1871年)、11歳にして父や兄とともに岩倉遣欧使節団に加わって渡米.
山本、西園寺内閣でそれぞれ文部外務大臣を務める。
西園寺公望首席の第一次大戦後のパリ講和条約の次席で実質采配をふるう。
随行員に近衛文麿・女婿吉田茂などが名をなしている。
妻・峰子は宮崎県官選知事も努めた三島通庸の二女。
生命の受け継ぎは次の如くである。
長男: 伸通
長女: 雪子(吉田茂に嫁ぐ) 孫: 吉田健一(作家) 孫: 和子(麻生太賀吉に嫁ぐ)
二女: 利武子(宮崎県の秋月種英に嫁ぐ) 孫: 秋月英子(武見太郎に嫁ぐ)
麻生太賀吉の長男 太郎、次男 次郎 - 学習院大学ヨット部で活動中に事故死
三男 泰(アソウ・ヒューマニーセンター代表兼麻生セメント社長)
三女 寬仁親王妃信子
従兄 大井廣介(麻生賀一郎)(文芸評論家)
吉田茂が総理の多忙を極めて時期に宮崎・高鍋町秋月家を訪ねている律儀さ。
この高鍋町は名君の学問を好む風土からこのブログで何度となく触れてるが日本史に残る偉人を各界に輩出している。
話を戻すが山本家のことである。
山本家は源満政を祖とする清和源氏の一流である。
三河の小豪族として成長し桶狭間の合戦後に
徳川家康が岡崎に自立して三河を平定していくなかで、
永禄8年(1565年)牧野家と山本家は共に家康に臣従、直参旗本となった。
天正年間、山本成行のときに、家康直参のまま上州大胡藩の藩主となっていた牧野康成に与力し牧野家の家臣となった。
元和4年(1616年)に牧野家が越後長岡藩主に加増移封されると、山本家は上席家老連綿=上席家老職を世襲する家に定着した。
幕末大政奉還後の越後長岡藩は官軍に敗北。
藩主は新興の筆頭家老・河井継之助と譜代の上席家老・山本帯刀を反乱の首謀者として報告し恭順した。
河井は敗走中に病死、山本は捕われて処刑され、両家はともに家名断絶となる。
維新後牧野家では、家祖の代から深いつながりがあった山本家の家名再興を使命として代々尽力することになる。
明治17年(1884年)にいったん再興されたが、戸籍内に男子がない「女戸」とされ、その女子も死亡すると廃家となった。
大正4年(1915年)、旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男・五十六が海軍大学を修了して、海軍で佐官以上の地位が約束され、牧野忠篤子爵はこの31歳になる高野五十六が山本家を相続し家名を再興。
高野家は元々信濃上田藩の家臣。慶安元年(1648年)高野七左衛門のときに牧野家に再仕官し、40石の馬廻り衆(中級藩士)となった。その後延享年間に高野秀右衛門が家老・山本勘右衛門の補佐をし以後代々高野家は山本家と深い関係を持つ
河井・山本の両家が廃絶となると、代わって戦後処理で活躍した。
日向・延岡藩は三浦牧野内藤とつづいた。
九州では内藤家は唯一の譜代大名。
なにゆえか、おそらく徳川幕府の狙いは薩摩藩にむけた幕府の砦ゆえの配置であったのであろう。
この牧野家の転封さきが常陸笠間藩。1747(延享4)年のことである。
牧野成貞の三男が1719(享保4)年、年長の甥の日向延岡藩主牧野成央の急養子となり、延岡8万石を相続した経緯もある。
下って笠間牧野家から長男忠敬は越後長岡の牧野本家の養子となる。
次男は早世したため、家督は三男貞長が相続した。
笠間牧野家は幕政においては老中阿部伊勢守正弘を支えて主に海防を担当。
1853(嘉永6)年のペリー来航とそれに続く日米和親条約の締結に当たった。
藩政においては、1843(天保14)年に老中水野忠邦の上知令により領内の新潟港を上知され、それ以降藩財政は窮乏した。
1857(安政4)年の阿部の死後老中を退き、翌年60歳で没した。家督は養子忠恭が継承した
笠間牧野家のその後は連綿と歴史の表舞台で日本の歴史にあらわれ、支持率急落の麻生内閣に至っている。
旧笠間藩主家の華族は、2家ある。まず旧藩主家が華族に列し子爵となった。
次に内大臣大久保利通の次男。後に常陸笠間藩牧野家を継承して牧野を称した。
1871(明治4)年からのいわゆる岩倉使節団に同行して洋行、帰国後は外務省に入る。
以降は前述したとおり。
昭和に入るとその自由主義的思想から軍部などに敵視され、1935(昭和10)年に内大臣を辞し、翌年の二/二六事件の際には湯河原の別荘を襲撃されたが、脱出して危機を逃れた。
天皇の信任厚く伯爵でその直系子孫は、学習院高等科・中等科数学科教諭となった。
1949(昭和24)年、千葉田中にて89歳で没した。
牧野家は、館林藩主徳川綱吉(15万石、後に10万石加増)の家老や、
5代将軍・徳川綱吉の側用人となった牧野成貞の後裔である。
日向国延岡藩より江戸に比較的近い笠間藩に移封を成功させた牧野貞通。
その3人の男子(忠敬、忠利、忠寛)を、越後長岡藩主に養子として出した。
以後笠間藩は、越後長岡藩の支藩として牧野家の領有で固定され、明治維新を迎える事となる
牧野忠敬は 江戸時代中期 の大名。越後長岡藩の第6代藩主。長岡藩系牧野家宗家7代。
( 享保14年1729年6月 ~ 延享5年6月29日1748年7月24日)
笠間藩から越後国長岡藩主の養子にいる。
生命の受け継ぎはつぎのとおり。
父母 父:牧野貞通、母:本庄氏
養父:牧野忠周
兄弟 牧野忠敬、牧野貞長、牧野忠利、
牧野忠寛
妻 正室:牧野忠寿の娘・直君(明仙院)
子 実子なし
養子:牧野忠利
享保14年(1729年)6月、日向延岡藩主・牧野貞通の長男として延岡で生まれる。
元文4年(1739年)6月6日、第5代藩主・牧野忠周の養嗣子となる。
寛保3年(1743年)12月に従五位下、駿河守に叙任する。
延享3年(1746年)4月4日、忠周が隠居したため、家督を継いで藩主となる。
2年後の延享5年(1748年)6月29日、江戸で死去した。
越後国長岡藩にはどこにでもあるお家騒動があった。
牧野秀成の粛正のことである。
秀成は通称主水正、江戸の兄忠成が初めて長岡入りする寛永7年(1630年)までは、
長岡に在って兄の留守を守り、家臣に人望があった。
それが過剰となり、家臣団の中に秀成を担いで派を競う動きがあったともいわれ、
忠成の上意により自害させられたとも、誅殺されたとも伝えられる。
これに関係があるかの如き事もある。
寛永14年(1637年)6月6日の彼の死の直後の6月22日に兄忠成の嫡男光成が急死し、その後の牧野家内の継嗣争いに発展する。
葬地は栃尾組椿沢(現見附市)の椿沢寺にある。法名は冷光院殿覚了幻心居士。
のちには弥彦神社の旧末社五所宮の祭神として牧野出羽守保成等三柱と共に牧野秀成も祀られていた。
主祭神大己貴命に加えての牧野家関係者四柱を祀ったのはその怨念を鎮めるためとも云う。
なぜに秀成の事までを挿入したか。
愚息を見いだしたからである。
牧野家の笠間への移封によって伝わった剣術がある。
幕末新撰組さえ恐れた薩摩藩の秘術・示現流は、唯心一刀流と並んで笠間藩の剣術の二大流派。
この系統の示現流は周囲の藩にも伝わり、現在の土浦市、石岡市、宇都宮市、鹿島、久慈郡等に伝わった。
日向・鵜戸の剣の聖地に並ぶ鹿島につたわる奇縁。
この系統は「笠間示現流」とも呼ばれる。
現在でも笠間には示現流の形が伝わっている。
笠間で現在伝わっている示現流では立木打ちは行われていないが、土浦市真鍋地区では昭和中ごろまで立木打ちが行われていた記録
示現流は薩摩藩を中心に伝わった古流剣術。流祖は東郷重位。
本来は薩摩藩及び分家の佐土原藩以外の者に伝授することを厳しく禁じられていた御留流である。薩摩藩内では江戸後期に島津斉興より御流儀と称された。
関東の笠間藩に伝わった流れは、佐土原藩経由で延岡藩に伝わり、延岡藩主だった牧野家が常陸の笠間に転封になった事から、笠間まで伝わったようである。
薩摩の流祖の東郷重位は、元々はタイ捨流を学んでいたが、京都で善吉和尚より天真正自顕流を相伝し
両流派の利点を創意工夫した上で新流派を立てた。
「示現流」という流派名は日向南郷の出・南浦文之による命名である。
あの日本一・アジアチャンピオン西武のキャンプ地である。
剣聖の日向の地で世界記録のホームランの王貞治の一本足打法は生まれた。
師・荒川とともにバットでなく日本刀の真剣を振りさらに切り、毎晩の収斂で生み出した打法である。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』よりの引用記述である。
山本五十六は日米開戦を嫌った。
国力差を20VS1とみていたゆえだ。
国家情勢の前に短期決戦なら勝てると奏上せざる得なくなりその道に賭け連合艦隊司令官の職も請けた。
長岡空襲は、当地が山本五十六の故郷であったというだけの理由で行われたとも言う。
米国公文書館に山本五十六の故郷が新潟県長岡であるとの記録が残るのみで確かな根拠はない。
しかしながら、米国マスコミでの軍関係者が、国民の戦意喪失のために空襲をしたとエピソードを語っている映像がTVで報道されたことがある。
また長岡空襲を紹介した書籍・文献などに山本五十六の故郷だから、空襲が行われたともいうとの記述が散見されてるらしい。
長岡空襲は、市民を怯えさせるように大量の焼夷弾がB-29から落とされて、市内の約8割を焼き尽くしたが、軍施設・公共施設より市街地が中心に狙われるなど、一般の空襲と目的が違っていたことが伺える
。但し、当時の長岡市には、理化学研究所(理研)の研究施設があり、長岡空襲は、この理研の施設を攻撃することが目的であったとも言われている。
山本五十六の右腕に黒島亀人があり、自身の戦死の寸前の頃まで長く手元に置いた。。
「同じ参謀が作戦を練っていたのでは、手の内が見破られる」との忠告もあり、戦略家としては否定する理由に挙げている。
ただし、山本は戦死の直前、「黒島を他の者に代えようと思う。誰が良いと思うか」と最後の連合艦隊司令官・小沢治三郎に相談していた、と言われている。
最後の提督・小沢治三郎は日向・高鍋のヒト。
山本語録のネタの上杉鷹山の出自の秋月藩である。
小沢高鍋町長はその孫に当たる。
生業の弁当屋さん仕出し屋さんを奥さんに任せて郷土の発展に汗をかいている。
苦労人の独学で作った憧れの高校生活「高校三年生」等の生みの親の日本人の琴線を揺り動かした遠藤実もたしか牧野山本家と同じ越後のヒトであったとの記憶。
40年の生涯を閉じたきょうのジョン・レノン。
さいたま市のジョン・レノン・ミュージアムが設けた献花台には今年もファンが花を供える。
「イマジンは20世紀の歌だが、21世紀にはさらに価値が高まっていこう。
平和の歌が輝きを増すのは悲しい話でもある。
ジョンの歌を愛する歌手の忌野清志郎も、独自に意訳した詞でイマジンを歌い継ぐ。
ガンに冒された声帯から声を絞り出す。
「21世紀になったら世界が平和になると思ったのに、ますますひどくなる。ジョンが生きていたら今の状況をどう思うんだろう」
。ステージで彼はそう語っている。
特殊なる能力のミュージシャンは人類の未来が見えてるのか。
一年中のウソが供養されと言われてる日。。
いわれに従い豆腐を食した。
おおぼらふきともいわれてる博打好きの山本五十六も食したんであろうか。
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