求道者

2005年10月7日
宗教者の求道心は前にも書いたが法然に帰着し親鸞と道元に行きつく、
南無阿弥陀仏を唱える親鸞のお知えの浄土真宗は仏の前に平等を教義とするゆえ封建時代の支配政治体制を揺るがしかねないので危険集団視された。sekenndeiu一向宗である。
今日のオーム教団や幸福の○○などの比ではない。
さらに親鸞の教えは道場や伽藍の建物を持つわけではなく当たり前の生活の場である自宅の一屋を道場としたので信者の確定ができない。
支配者は現代のテロに怯える国家郡の心境であったであろう。
親鸞は弟子たちに遍歴遊行を禁じあくまでも在家にあって、当たり前の生活の中での専修念仏を勧めたのである。
ゆえに宗教者や信者であると同時にもう一つの顔があった。
在地の名主や商人、鎌倉幕府配下の武士もいた。、道場主は親鸞同様、出家精進の生活をするわけでもなく、当たり前に妻帯肉食の生活を営み、それぞれ信者を集めて門徒とした。
この道場主を通じて親鸞と結ばれていた念仏者の数は、万をはるかに上回るともいわれる
親鸞の浄土真宗の布教は、もっぱら坂東にあった。
後年、鎌倉幕府の念仏宗禁制のあおりで帰洛したものの、畿内で布教した形跡はほとんどない。それ故、親鸞門徒にとって坂東は憧れの聖地、メッカであった。
そこに門徒間の争いが起こり52歳になる次男の善鸞が派遣される。
、念仏者が阿弥陀仏以外の神仏を否定したり、悪人正機説を逆手に取って悪事を為しても救われるか、といった真宗門徒にとっては根本的な問題に関してであった。
これに対して善鸞は、下野・常陸・上野の諸国で道場を経営する親鸞の弟子や門徒たちにを味方につけ教団化した。
親鸞は次男たる善鸞を止む無くを義絶してまで宗教者の姿勢を貫き通した、
その結果、善鸞は父親鸞から義絶されてしまう。
親鸞自身は寺も道場も持たず、請われるままに坂東各地の道場主たちを回って教えを授けて歩いた。
親鸞の死の床さえも、弟の家であった。
教義を発展させ組織として教団化したのは 本願寺蓮如である。
このころから時の支配者と相対峙することとなる。
織田信長と長島の一向宗門徒の間で起こった一向一揆は江戸初期のキリスタン島原の乱とともに燦然とと日本宗教史に記録をとどめている。
舞台となった悲惨な歴史の寺跡は河川工事によって、長良川の川底に沈んでいる。
願證寺は戦国時代を今に残す記念館である。
現在の願證寺は、門徒のために闘いの舞台である祐泉寺を想起し残したもの。
また加賀国一向一揆は守護富樫政親の高尾城を攻め落し加賀一国を一揆持ちの国、いわゆる「百姓の持ちたる国」としたのは長享二年(1488)のことである。
九州には浄土真宗の全国的な特筆するものはないが島津藩の諸県地方に隠れ念仏としてあちこちに残滓が遺跡として保存されている。
その最大のものは高城町有水小学校から4KM北にいったところにある。
田辺かくれ念仏堂である。
もともとこの有水は支配者島津の東の要であった。
正保・慶安の60年間高城・山之口・高原・高崎・野尻・勝岡の66郷を支配していたのだ、
小学校正門前が東目6郷地頭・高城和田の仮屋跡なのである。
ちょうど私共の車が止めてあるところだ
えびの、小林の九電連係を4件済ませテレビを修理してこの地に夕方来た。
長崎の諫早にお住まいの方の実家がこちらにあり、13時からのおば〜チャンのお葬式を済ませられた後にお目通りするための17時ころである。わずか30分の時間を利用してのことだ。
支配者のいるところのその目と鼻の先に田辺隠れ念仏堂はある。
小学校より4KM北が現地で看板がある。
谷を降りていくと眼前と開けてくる。
瞬間目測で奥行き約20メートル横幅は最大で5メートルの入り口は狭い
自然を利用した人為的な洞穴がある。説明看板では16畳の広さとある。大人50人は十分入れるの広さである。
奥から湧水がありその中を背広をメチャクチャにしてひたすら悠久の時間を越えた。
生きる信念に賭ける生活者のたくましさを見た。
感動モンである。
浄土真宗は薩摩相良藩では禁制・ご法度。既に禅宗や真言宗がさかんで異教である
見つかれば拷問投獄流罪死罪に処される
時代も慶長2年(1597)義弘は秀吉の命により征伐・韓国のたたかいの最中であった。
。そのさなかゆえなおさら禁制は厳しかったろう。
田辺、八久保 西久保の同行は役人の目を逃れこの洞窟で念仏を唱えたのである。
大正10年ころから山崩れなどで姿を消し昭和45年4月にに見事に再発見され復元されている。
『教行信証』は浄土真宗の根本聖典。
正式には『顕浄土真実教行証文類』といい、教えのすべては教巻、行巻、信巻、証巻、真仏土巻、化身土巻の6巻ある。
これまで洋の東西を問わず多くの人々を魅了させている。
20世紀最大の哲学者の1人マルチン・ハイデッガー
「今日、英訳を通じて、初めて東洋の聖者、親鸞を知った。
もし、10年前に、こんな素晴らしい聖者が東洋にあったことを知ったなら、私はギリシャ語や、ラテン語の勉強もしなかった。日本語を学び、親鸞聖人の教えを聞いて世界じゅうに広めることを、生きがいにしたであろう」
哲学者田辺元
「親鸞の教行信証が私に与えた指導教化は、殆ど計り知られない程大きい」
「私は教行信証の宗教哲学を以て、西洋に匹儔を見出すこと困難なる如き深さをもつものと思惟せざるを得ないのである」
三木清
「『教行信証』は思索と体験とが渾然として一体をなした稀有の書である。それはその根柢に深く抒情を湛えた芸術作品でさえある。実に親鸞のどの著述に接しても我々を先ず打つものはその抒情の不思議な魅力であり、そしてこれは彼の豊かな体験の深みから溢れ出たものにほかならない」
親鸞の生まれたのは約800年前、のことで90歳で逝去した、
親鸞の著書が混迷する小泉改憲政治の日本の進路を指し示すことになるのか。
連立のもう一つの政党が矮小化された池田大作教義として体現しつつあるのが日本の現状である。
最大派閥の無派閥の83人の小泉チルドレン。早速本会議で質問にも立ってるがお茶坊主は政治家にあらず。
有水などこの地域に住んだ農民たる宗教者にも劣る人間にしか過ぎない。
太陽光発電の普及の求道者として先人の遺訓を体現したい。

ブログ・ランキング参戦中
クリック!

http://blog.with2.net/link.php?62076

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索