立会い。

2005年10月8日
歴史に名を残すには相当の偶然にその場に位置していたかの場合もある。
近代ではスポーツ功労者がマスコミの寵児となる。
他方ノーベル賞 は地味だが知的存在感を世間から得る。
その中でも平和賞は時代を反映している。
恥かしげもなく佐藤栄作が日本唯一の受賞者とくると眉間に皺がおきる。
引退記者会見のとき記者は誰一人居なくそれでも一人会見を続けたワン・シーンが残っている。
ノーベル賞の政治色が色濃く残る反面教師の一面がある
 今年のノーベル平和賞は国際原子力機関=IAEAとエルバラダイ事務局長に決まった
広島と長崎への原爆投下から60年。核疑惑は北朝鮮とイランと深刻化し、パキスタンのカーン博士を中心人物とする核の闇市場も表面化した。
テロ集団の手に渡る危険性がふかまっている。
エジプト出身のエルバラダイ氏は米国との関係が思わしくなかった。
イラク戦争前の核査察では、フセイン政権が大量破壊兵器を開発・保持しているとの米英の主張に対し、一貫して懐疑的な見方を示した。
こうした姿勢が、今は国連大使になったボルトン米国務次官(当時)らタカ派との軋轢に発展したのである。
 だが、エルバラダイ氏率いるIAEAは、イラク戦争前に流れた種々の怪情報に冷静沈着に対処した。
イラクがニジェールから大量のウラン輸入を企てたとか、ウラン濃縮の遠心分離機用とみられるアルミ管入手を図ったの情報がそれである
 こうした情報に対してIAEAは多くの場合、否定的な見解を示した。
イラク戦争後、米国も独自の調査でIAEAの見解を追認する結果になったが、双方のしこりは残り、米国は一時、同氏の3選を阻む構えを見せた。
そんなエルバラダイ氏に平和賞を授与した背景には、イラク戦争に突き進んだ米国に対するノーベル賞委員会の批判があるのだろう。
核不拡散条約(NPT)の加盟国で核を持っていない国は、IAEAの査察受け入れが義務づけられている。違反行為を防ぐ査察制度があってこそ、NPTの仕組みは信頼され、皆が従う。
申告のあった施設に限られていたことだ。その結果、イラク、イランのように未申告の施設で核開発計画が進められた。
 この弱点を補うため、IAEAは97年に追加議定書をつくり、未申告の施設でも査察できる権限を強めた。
議定書の締約国はまだ70カ国ほどで、加盟国の半数にとどまっている。
NPTは、米英仏中ロの5カ国に核保有を認める一方で、他国の保有を厳禁する。それでも非核国がNPTを支持するのは、保有国側が核軍縮を約束しているからだ。
なのに軍縮はなかなか進まない。
あ〜あのどが渇いた。
お茶の時間ご隠居役職なかなかジャワイ!”
ジャスミン茶はさわやかな男性にぴったり!
サンピン茶は元気な沖縄おばぁにぴったりとのブログを読んだがさ〜て如何食飲しよう。
やはり緑茶。イィヤ!健康管理と病気予防に中国の秘薬の七葉胆。
お茶と来れば落語でしょう。それが落語三昧と来れば羨ましきどこではない。
小三治独演会 浮世絵名品展、チャリティー落語会は志ん生を背負って真打の圓菊師匠ならどうでもいい。
ただ「世の中ついでに生きてたい」志ん朝と来ると黙っちゃ〜おれない。(笑い)そんな理想的な生活してるのに羨望してる
田舎のものから見れば非国民!(笑い)
いいな〜生活変わりましょう
尊敬する方のブログである。
ところでご先祖さんが歴史に名を残したので孫の世代のご一行が現地を踏んでいるニュースがYAHOO!にある。 
 【レキシントン(バージニア州)吉田哲子】
1860年に日本の軍艦として初めて太平洋を横断した咸臨丸に乗り組んだ勝海舟らの子孫と、同船の操船に活躍し航海を成功に導いた米海兵隊のジョン・M・ブルック大尉の孫が7日、祖先の交流から1世紀半の時を経て当地で対面した。
 米国を訪れているのは、万延元年(1860年)、日米修好通商条約批准書交換のための幕府遣米使節を乗せた米軍艦ポーハタン号の護衛随伴艦としてサンフランシスコへ渡った咸臨丸の乗組員、木村摂津守、濱口興右衛門、小杉雅之進らの子孫らと幕末史研究家ら約30人。
6日に米国入りした一行は7日、首都ワシントンから南西へ約320キロのバージニア州レキシントンにあるブルック大尉の孫、ジョージ・M・ブルック・ジュニアさん(90)=バージニア・ミリタリー・インスティチュート名誉教授=の自宅を訪れ、祖先が受けた恩に感謝の意を伝えた。
 ジョン・ブルック大尉は測量船の船長として来日、横浜滞在中に航海経験を買われ、咸臨丸に同乗してサンフランシスコで下船した。
孫のジョージ・ブルックさんは1914年東京生まれで2歳まで日本で育ち、その後米国へ。
1962年には慶応大学で1年間、教鞭をとった経験もある親日家。祖父のブルック大尉は1906年に死去したため、直接対面はしていないが、祖父の伝記を孫のブルックさんが出版している。
 咸臨丸乗組員の子孫らとの対面に感激した面持ちのブルックさんは「わざわざ会いに来て下るとはたいへん有難い。祖父は日本人が好きで、日本のことをよく話していたそうです。私も日本で生まれ、心は日本にあります」と語った。
 訪問には勝海舟の玄孫で米国人のダグラス・スティッフラーさん(38)=米ペンシルバニア州在住=も参加した。一行を迎えたブルック家では、同家が所蔵する勝海舟の肖像画(エドーワド・カーン画)など日米交流にゆかりのある貴重な品々も披露された。
 咸臨丸は1857年、オランダで建造された日本初のスクリュー式蒸気機関付き帆船。1860年の太平洋横断では激しいシケに見舞われ、ブルック大尉らによる不眠不休の操船がなければ「難破していただろう」(咸臨丸子孫の会)とされている。
 一行は、9日にサンフランシスコへ飛び、米国で死亡した水夫ら3人の咸臨丸乗組員の墓をコルマ墓地に訪れ献花するほか、咸臨丸を修復したメアアイランドの旧海軍工しょう跡などを訪れた後、13日に帰国の予定
横須賀造船所を建設し後の日露戦争を勝利に招いた最大の功労者
小栗上野介がここでもかけ落ちているのが気になる。
歴史に正当なる評価を下すべきで歴史は書き直されるべきである。
昨日の長崎の方に会い4KWの太陽光発電建設の契約書を取り交わす。場所は昨日書いた有水の地である。
明日は3,7KWの太陽光発電所を日向市に建設する。
久しぶりに一日中現場におることができる。
パネルはナント元気坊が20時過ぎに日向に向かった。
このガンバリ!大丈夫。
アパデン宮崎の職人さんは延岡の改修工事の集中するからである。

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