ファシズムとは・・・
2010年4月14日 お仕事 コメント (3)8年以上の経験で初めてのことがある。
爺目のブログにリンクを張られ1ヶ月もせぬうちに
自らリンク中断された
・・・wichブログ。・・
なんだったんだろう。
喧嘩売って出て行っただけ
捨てセリフが凄い
何故に「クリック」せねばならぬッ!
こちらも負けられぬッ!
木戸銭払えッ!
「クリックが」その木戸銭かわりだっぁ~
とかイロイロ爺目も言うが
悪罵のみに終止
最後にある
「クリック」のお願いを冷やかしただけ。
爺の冷やかしのみ意地悪のみに過ぎなかったリンク。
アトで総てが解った田舎モンの爺目である。
猿骨ブログからのスパイ的役割で来訪されたのみ。
なにも爺目のブログに興味がありリンク張られたのではない。
早朝更新で気性が合いさらに凄いヒットの方とリンクさせていただいた。
アミさんブログという。
ブログ同士の喧嘩なぞを嫌がるご立派なるブログの方。
ブログを楽しんでいたら・・
こちらに強制的にリンクを張ってきたのが爺目からリンクをはずしたバカリの記憶あるブログ。
日にちも1ヶ月もないそう経ていないのにである。
手口という。
爺目が会話してる事に突然出現してくる。。
現る・・・・おお怖わぁ~~
・・・wichブログ。・・
いろいろと理由をつけてアミさんブログにリンクを張られてきた。
爺目は・・・wich現るで・・スタコラ退散・・・
wichのねらい目とうりである。
13日は爺目の敬愛する「北」の大兄に
えりちん爺 へ
すりより・・
またもや何かを企んでいるようである。
アミさんのときのように「北」の大兄さまから
爺目のリンク外しを狙った手法なんであろう。
読む気もしないので訪問してないが
馬鹿さが手に取るように解る。
猿骨とwichは仲間である。
どれでもいいんである。
ブログのどれかに狙いを定めて
嫌がらせをして楽しんでる
実に汚らしき輩のグループである。
わざと足跡を残し脅し挑発するバカッ!
これ以外に同日のUNがたくさん残されている。
これはワザと爺宛に残された分。
普通の人・・どう思われます。
これすべておなじバカッ!である。
2010年4月13日7:50 猿滑骸骨 ユーザー 最新日記のタイトル
2010年4月13日8:46 ネット問題研究会 4月12日。今日の暴言
2010年4月13日8:55 ネット問題研究会
2010年4月13日8:55 せきやんの暴言問題研究所
2010年4月13日14:24 せきやんの暴言問題研究所
2010年4月13日21:21 せきやんの暴言問題研究所
4月13日の誹謗・中傷・暴
2010年4月13日22:47 百日紅街惚 平和を脅かす「憂国」の押し売り
2010年4月14日7:14 せきやんの暴言問題研究所
悪罵のやりとりで猿骨とwichは楽しんでいる。
爺目のブログは幼稚。
小学校高学年で勉学をやめた思考停止
満足に義務教育も経ていない。
ところが何故か留学経験あると書かれてるフシのアル
猿骨ブログが爺目に興味があるらしい。
その割には悪罵だけ。
ジジイのバカッ!
指摘揶揄で遊ばれてるとうりでまっとうなる文章でもない。
今後に考え方を見聞きしたのを記憶として日記にとどめてるに過ぎない。
9年前に始めた頃、自己主張のブログなる言葉は社会的に存在してなかった。
あくまでバーチャルな世界のお話のこと。
ゆえに爺目の認識のブログとは日記の延長で記録にとどめるのみのこと。
あちこちの師匠たると定めたる方々のコピペ。
今後に考え方を公開されている日記に記しているに過ぎない。
留学経験アル年収1000万円を超えるであろう正規社員の高貴なお方の猿骨ブログのお目にかかったのは光栄でサルである。
そうりゃぁ~そうだ。
事情から総て正直でウソはないのである。
田舎の宮崎ではハンドルネームも何もない。
「これ書かないでねぇ~」
「こないだ書いててたことねぇ~」
田舎の爺を知る社会でブログを通じてアル意味有名人となっている。
バーチャの世界はそうでなく情報発信基地にある。
もちろん猿骨やwichのことも含めてそうである。
太陽光発電の爺目の事務所位置を晒して得意げの猿骨ブログ。
当方の職人からはカンカンである。
なんとかその時治めはしている
今次もそうだ
ところがナに知らぬ顔の猿骨の言い分。
そのときの証拠を示せッ!
自分のクソのケツは自分で拭かんカイッ!
他人様までウンコ踏ませるなッ!
グズめ!
語れるひとではない。
せきやんブログにかかわるのヤメンカイッ!
wichブログという北の山登り好きの方らしい人。
世界遺産ヒマラヤを放映していたが尾根々々の連峰であるハズ。
ヒマラヤ登頂と言うが8000m峰は俗に14座とよばれる複数にある。
最高峰 はエベレスト 8848 Mで国もネパール中国 にまたがる
そのエベレストは1953年5月29日 イギリス隊のE・ラリー、シェルパのテンジン・ノルゲイが南東稜より初登頂 の記録が残る。
二番目に高いK2 8611Mは パキスタン中国で 1954年7月31日 イタリア隊のA・コンパニェーニ、L・ラチェデリ。アブルッツィ稜より。
輝かしき記録はマナスル 8163M ネパール国。 1956年5月9日 愼有恒を隊長とする日本隊。今西壽雄とギャルツェン・ノルブが初登頂
2010年までに
日本人は165人が登頂しており、男性が154人女性が11人
記録を抜きだいしてみる。
松浦輝夫(日本人エベレスト初登頂者)
田部井淳子(世界女子エベレスト初登頂者)
渡邉玉枝(女子最高齢エベレスト登頂者)
ただ、いたたまれない事もある。
日本人遭難者男性5人、女性2人
、栄光を得るにはまさに命がけである。
国別統計03年春期
3844人遭難者217人
ネパール人730人
アメリカ人235人
日本人106人
ロシア人76人
英国人68人
インド人66人
中国人56人
スペイン人54人
韓国人48人
ほか399人
日本の登山文学の古典がある。
世界山岳全集に収録されている
「ヒマラヤ行」政教社 1920年刊
著者の鹿子木員信教授は慶應大山岳部の初代部長、
1918年日本人で初めてヒマラヤに入ったひと。
ダージリンからゴーチャ峠を越えタルン氷河からカンチュンジュンガを目指した。
この記録である。
鹿子木員信教授は佐々の殿様の熊本藩士族の家系
旧制東京府立第一中から海軍予備校を経て、1904年に海軍学校を卒業
海軍中尉で病を得て予備役を経て退役。
その後は哲学を専攻1906年(明治39年)9月 京都帝大哲学を経て
近衛文麿を知り関係を深める。
慶應教授を経て、1907年よりアメリカ・ドイツに留学。
1926年に九州帝大教授・同法文学部長、1927年にはベルリン大学客員教授。
戦争中は徳富蘇峰が会長を勤める言論報国会の理事、事務局長を務め、国粋主義思想を広めた。
徳富蘆花の短編「梅一輪」「みみずのたはこと」所収に海軍士官葛城勝郎として登場する。
鹿子木 員信(かのこぎ かずのぶ、1884年(明治17年)11月3日 - 1949年(昭和24年)12月23日)は、
、戦後はA級戦犯容疑者として逮捕された。
妻は教育者である鹿子木コルネリア、
息子にベルリンオリンピックに出場したバスケットボール選手、鹿子木健日子。
渋谷駅の東口より徒歩5分 に金王八幡宮ガ鎮座される。
社伝によれば1092年(寛治6年)現在の渋谷の地に渋谷城を築き、渋谷氏の祖となった河崎基家(渋谷重家)によって創建されたとされる。
江戸時代には徳川将軍家の信仰を得、特に3代将軍徳川家光の乳母春日局は神門、社殿を造営したとされる
ここは未遂となった神兵隊事件1933年(昭和8年)7月11日に発覚した
、愛国勤労党天野辰夫らを中心とする右翼によるクーデター未遂事件の現場である。
この時期イロイロとある国家転覆事件。
神兵隊事件は未遂その後のもみ消しゆえかあまり知られていない。
血盟団事件、五・一五事件などの流儀を受け継ぎ、
大日本生産党・愛国勤労党が主体となって、閣員・元老などの政界要人を倒して
皇族による組閣によって国家改造を行おうと企図した。
金王八幡神社の集結所で警視庁捜査員らにより未然に発覚
天野辰夫ら約50人が検挙され、内乱罪が適用されたが、刑は免除された
その事が次の事件を生んでしまった。
この組織で生き残った人々で「まことむすび」という機関紙の元に集った。
「まことむすび」は昭和18年(1943年)10月21日の一斉検挙によって解散した
本間憲一郎を中心に、鹿子木員信、安田銕之助、小山茂雄、天野辰夫を世話人とした。
「吾は日本人なり」を指導原理とし、政治運動・宗教運動・右翼運動を否定した
機関誌『まことむすび』は薄井己亥を主幹とし昭和14年4月1日から発行された。
戦時刑事特別法の改正時に東條英機を攻撃するなど、毎号激烈な政府批判の内容だったため何度も発禁となった。
湯浅倉平内大臣暗殺計画、
昭和16年(1941年)8月にはついに実行された。
鹿子木員信「まことむすび」が実行した
弾丸6発を被弾する重傷の平沼騏一郎狙撃事件である。
今年は大逆事件100年。
明治43年(1910年)の大逆事件では、検事として幸徳秋水らに死刑を求刑したのが
岡山津山藩士の人・平沼騏一郎
それにとどまらぬ検事平沼騏一郎のことがある。
西園寺公望が育てた立憲政友会を潰すために国策捜査を行わせたのが帝人事件
平沼騏一郎の意向を受けた検事達の捜査は政友会幹部らの逮捕を優先
裏付けとなる証拠収集があまりにも杜撰であっために、
公判では全員無実無根であるとして無罪判決
元老西園寺公望の本姓は藤原。藤原公望(ふじわら の きんもち)。
大正13年(1924年)に松方正義が死去した後は、「最後の元老」として大正、昭和天皇を輔弼した
元老西園寺公望は第2次若槻内閣や浜口内閣に対する攻撃、天皇機関説排撃事件などで法曹界の雄・平沼騏一郎を嫌いその登用を避けた。
もう一つ避けた理由は平沼騏一郎が会長の麹町区平河町六番地の国本社である。
西園寺公望らからはファシズム思想とみられた。
五・一五事件後の調査では全国に20万人の会員を擁し、
教化団体から実行団体へと移行しつつあり、既成政党からは「一敵国」と見られていた
国本社
会長平沼騏一郎
副会長東郷平八郎、山川健次郎
官僚では鈴木喜三郎、塩野季彦、小山松吉、後藤文夫、
軍人では宇垣一成、荒木貞夫、真崎甚三郎、斎藤実、
財界からは池田成彬、結城豊太郎、
学界からは山川健次郎、古在由直らが会員となった。
平沼騏一郎は多くの右翼組織があるが源流からして
国本社を組織した本流中の本流である。
国本運動は田沼時代に松平定信によって提唱された。
明治維新当時には岩倉具視が「国本七箇条」を朝廷に献策している。
明治23年(1890年)創刊の雑誌「国本」は国本主義を鼓吹した。
前年の雑誌「日本及日本人」が創刊されている。
外来思想・社会主義思想が台頭し、東大には新人会が出来て新思想の根幹となり、国本主義は衰退した。
この新人会を反日本思想と見た上杉慎吉たちは「興国同志会」を起こし、国本運動を再興した。
「興国同志会」を「国本社」と改称して
法政大学総長第二東京弁護士会設立の竹内 賀久治
亜細亜大学の実質的創立者弁護士福島の人太田耕造
らが奔走して組織化された。
平沼騏一郎を顧問に迎え、機関紙「国本」を発行した。
終生、独身だった平沼騏一郎。
平沼赳夫が新党を立ち上げた、
平沼騏一郎の兄である経済史学者早稲田大学学長を務めた平沼淑郎の曾孫である。
赳夫の父は大協石油勤務の中川恭四郎
石川県金沢市出身の内務官僚・中川友次郎の四男。
赳夫の母は淑郎の孫娘である節子(東京裁判においては、老齢である平沼の代理として証言台に立った)
平沼赳夫は平沼家騏一郎とは女系での繋がりの孫。
当初は赳夫だけを養子にするつもりだったが、
恭四郎一家ごと養子とし、平沼姓を名乗らせたのが
平沼騏一郎。
右翼の襲撃のカチンの森を起こした国
Leading Moscow judge gunned down
モスクワで12日朝、エドワルド・チュバショフ(Эдуард Чувашов)さんという連邦判事が射殺された。
犯人はチュバショフさんの住むアパートの玄関で正確に彼の頭と胸を撃ち抜いた後、
床に落ちた薬莢を拾う余裕を見せた上で立ち去ったらしい。
監視カメラの映像では20代の男性と見られるが、
その落ち着いた様子からプロの殺し屋の犯行だろうと言われている。
ロシア語での報道はノボスチなど。
Eduard Chuvashov 判事は、国粋主義者や民族差別主義者の関与する裁判をいくつか手がけてきていて、
2月にも「白い狼(Белые волки)」と名乗るネオナチ組織の一味に対して厳しい有罪判決を下したほか
、先週にも移民を殺害したスキンヘッドの少年の裁判を担当したばかり。
ネット上で右翼団体に「ロシアの敵」だと罵られたり、殺人を予告する脅迫なども受けていた
ボディーガードを付けるのを断っていたという。
「ロシア人は怖いですね」とかいうはなしではない。
あまり報じられないだけ、
日本でも大阪駅の前で在特会の人たちが寄ってたかって元市議に暴行を加えるなどという事件が起きていた
どこの国にいても、国粋主義者たちには気をつけろ、ということ。
マスゾエ、ハシモト、そのまんまコクバル
、政党を作ったら、おれに命名させてくれ。・・・
「目立ちたがりたい党」、長いな。
「あほばか三銃士党」もうひとつだな。
これだ!!
「たらん党」
いや、タレント→「たれん党」これでどうだ。
最後の元老西園寺公望が居られれば言われたであろう
ファシズム思想の萌芽と。
何故かって・・
こいつらぁ~
きりがない。
橋の下の秘書、私設秘書=奥下剛光と本府の関わり。
大阪府のサイトの中にこんなページ↓
http://www.pref.osaka.jp/koho/hisho/index.html
行政と首長秘書との関係に詳しい方なら
「ん?」
と思われる項目もありますよね?
「公表できる」のがこのクラスですから。
じゃ、企業名を出したらどうなるのか・・見もの。
そうそう、奥下の兄弟がやってる居酒屋で160万もって逃げた従業員がいるらしい。
「知事様の秘書様のご兄弟が犯罪に!!」
ということで大阪府警が一生懸命らしい・・・
・・・府警なんて怒らすと・・・・
・・・・無理矢理身柄持って行ったあげくに取り調べて・・・
”公判で言う気力も起きないくらいの暴力”
を振るわれるからやめようっと(笑)。
大阪の橋の下のファシズム思想情況。
新党にファシズム思想のDNAの平沼騏一郎が蘇りつつある。
水と油の政治家が民主党崩壊にのみに標準を当てた政略で新党を結成した。
これを野合という。
金権と何故たたかわないという。
新政権は政治献金の一切の禁止といっているではないか。
佐高 信が新著を刊した。
『平民宰相 原敬伝説』角川学芸出版刊
これから学ぶものは・・・
「平沼騏一郎研究の必要性にアル。」
それを強調している宮崎学。
西園寺公望と原敬のリベラリズムをつぶすべく、
山県有朋や桂太郎らの藩閥政治家は「大逆事件」をでっちあげる。
その尖兵となったのが平沼騏一郎。
たとえば宮崎の人福島みずほ
、「原敬を田中角栄的金権政治家のパイオニア」
として批判している
どうなんだろう。
原敬は何と闘っていたのかも見なければならないだろう。
原敬は
政党の伸長を妨げるものとして、
軍部と検察を挙げた。
前者を象徴する人物が山県有朋であり
後者を象徴する人物が平沼騏一郎である。
小沢一郎は、郷里の先輩でもある原敬を尊敬する
多分、検察への警戒心を原敬から学んでいる。
検察に睨まれ逃げ切ってるのは小沢一郎のみである。
検察を牛耳る宗主国の植民地支配者のCIAを
亀井静香を通じて緊急時下取引をしたのであろう。
急遽解決した不思議さがある。
おそらく郵便資金での米国債買いの国富が持ち出されたハズ。
この場合国士の爺目は目を瞑らざる得ない。
今この国がなしえねばならぬ事
植民地からの脱却で国民生活をかっての生気ある世にせねばならない。
米国に持ち出された米国債権の国富の償還を新政権でなしえねばならない。
おそらく返さぬであろう。
横須賀に駐留する支配者たちが牙をむき出しにしてこよう
それにしても不景気が長すぎる。
好景気をまったく知らぬ世代に体験させるべきである。
宮崎学と佐高 信の対談『中坊公平的正義とは』社会思想社刊
、民本主義に対抗するため、司法エリートで国本社をつくった平沼騏一郎に焦点をあてる。
、被差別部落が国家に対する最大の脅威になると考え、水平社運動が広がらないように日本帝国細民会議を結成しと主張する平沼騏一郎。
細民とは被差別部落民のことであり、上から官製のそれをかぶせたわけである。
社会防衛という発想だった。
宮崎によれば、大逆事件の捜査指揮をしていた平沼騏一郎は、幸徳秋水らのグループを検挙して終る予定だった
その方針を途中で変え、
熊野新宮グループも逮捕する。
このグループに対しては、既に呼び出して帰しているのを、改めて捕まえたのである。
なぜ、平沼は方針を転換したのか?
この転換に日本のファシズムの原点を見る宮崎学
、こう指摘する。
「つまり官僚の持っている潔癖主義とか、それから今の社会に対するラジカルな否定とか、
法律が社会を変革できるんだという考え方とかになった時に、変わったんだろうと。
変わった時に平沼騏一郎が見たのは何か。
熊野新宮グループというのは和歌山県における被差別部落の坊主の高木顕明であり、医者のであるわけなんですよ」
天皇謀殺など考えていないこれらの人たちをも平沼は引っくくって処刑した。
そんな平沼について知るには自伝以外ない。
原敬の限界を云々するよりも、明白な敵の平沼を私は「研究」したい。
味方と敵をまちがえないためにもである。
週刊金曜日主唱佐高 信の意気やよし。
おなじゼミの毎日のヒゲの岸井成格
30年経るとこうも二人は変わるものであろうか。
岸井はもう三宝会に取り込まれているんであろうや。
ファシストらの解説するテrビ電波を日々聞かされウンザリである。
それにしてもネットウヨ以上に
しつこいこの猿骨ってナニ?
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こちらに強制的にリンクを張ってきたのが爺目からリンクをはずしたバカリの記憶あるブログ。
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手口という。
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・・・wichブログ。・・
いろいろと理由をつけてアミさんブログにリンクを張られてきた。
爺目は・・・wich現るで・・スタコラ退散・・・
wichのねらい目とうりである。
13日は爺目の敬愛する「北」の大兄に
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すりより・・
またもや何かを企んでいるようである。
アミさんのときのように「北」の大兄さまから
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馬鹿さが手に取るように解る。
猿骨とwichは仲間である。
どれでもいいんである。
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嫌がらせをして楽しんでる
実に汚らしき輩のグループである。
わざと足跡を残し脅し挑発するバカッ!
これ以外に同日のUNがたくさん残されている。
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普通の人・・どう思われます。
これすべておなじバカッ!である。
2010年4月13日7:50 猿滑骸骨 ユーザー 最新日記のタイトル
2010年4月13日8:46 ネット問題研究会 4月12日。今日の暴言
2010年4月13日8:55 ネット問題研究会
2010年4月13日8:55 せきやんの暴言問題研究所
2010年4月13日14:24 せきやんの暴言問題研究所
2010年4月13日21:21 せきやんの暴言問題研究所
4月13日の誹謗・中傷・暴
2010年4月13日22:47 百日紅街惚 平和を脅かす「憂国」の押し売り
2010年4月14日7:14 せきやんの暴言問題研究所
悪罵のやりとりで猿骨とwichは楽しんでいる。
爺目のブログは幼稚。
小学校高学年で勉学をやめた思考停止
満足に義務教育も経ていない。
ところが何故か留学経験あると書かれてるフシのアル
猿骨ブログが爺目に興味があるらしい。
その割には悪罵だけ。
ジジイのバカッ!
指摘揶揄で遊ばれてるとうりでまっとうなる文章でもない。
今後に考え方を見聞きしたのを記憶として日記にとどめてるに過ぎない。
9年前に始めた頃、自己主張のブログなる言葉は社会的に存在してなかった。
あくまでバーチャルな世界のお話のこと。
ゆえに爺目の認識のブログとは日記の延長で記録にとどめるのみのこと。
あちこちの師匠たると定めたる方々のコピペ。
今後に考え方を公開されている日記に記しているに過ぎない。
留学経験アル年収1000万円を超えるであろう正規社員の高貴なお方の猿骨ブログのお目にかかったのは光栄でサルである。
そうりゃぁ~そうだ。
事情から総て正直でウソはないのである。
田舎の宮崎ではハンドルネームも何もない。
「これ書かないでねぇ~」
「こないだ書いててたことねぇ~」
田舎の爺を知る社会でブログを通じてアル意味有名人となっている。
バーチャの世界はそうでなく情報発信基地にある。
もちろん猿骨やwichのことも含めてそうである。
太陽光発電の爺目の事務所位置を晒して得意げの猿骨ブログ。
当方の職人からはカンカンである。
なんとかその時治めはしている
今次もそうだ
ところがナに知らぬ顔の猿骨の言い分。
そのときの証拠を示せッ!
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他人様までウンコ踏ませるなッ!
グズめ!
語れるひとではない。
せきやんブログにかかわるのヤメンカイッ!
wichブログという北の山登り好きの方らしい人。
世界遺産ヒマラヤを放映していたが尾根々々の連峰であるハズ。
ヒマラヤ登頂と言うが8000m峰は俗に14座とよばれる複数にある。
最高峰 はエベレスト 8848 Mで国もネパール中国 にまたがる
そのエベレストは1953年5月29日 イギリス隊のE・ラリー、シェルパのテンジン・ノルゲイが南東稜より初登頂 の記録が残る。
二番目に高いK2 8611Mは パキスタン中国で 1954年7月31日 イタリア隊のA・コンパニェーニ、L・ラチェデリ。アブルッツィ稜より。
輝かしき記録はマナスル 8163M ネパール国。 1956年5月9日 愼有恒を隊長とする日本隊。今西壽雄とギャルツェン・ノルブが初登頂
2010年までに
日本人は165人が登頂しており、男性が154人女性が11人
記録を抜きだいしてみる。
松浦輝夫(日本人エベレスト初登頂者)
田部井淳子(世界女子エベレスト初登頂者)
渡邉玉枝(女子最高齢エベレスト登頂者)
ただ、いたたまれない事もある。
日本人遭難者男性5人、女性2人
、栄光を得るにはまさに命がけである。
国別統計03年春期
3844人遭難者217人
ネパール人730人
アメリカ人235人
日本人106人
ロシア人76人
英国人68人
インド人66人
中国人56人
スペイン人54人
韓国人48人
ほか399人
日本の登山文学の古典がある。
世界山岳全集に収録されている
「ヒマラヤ行」政教社 1920年刊
著者の鹿子木員信教授は慶應大山岳部の初代部長、
1918年日本人で初めてヒマラヤに入ったひと。
ダージリンからゴーチャ峠を越えタルン氷河からカンチュンジュンガを目指した。
この記録である。
鹿子木員信教授は佐々の殿様の熊本藩士族の家系
旧制東京府立第一中から海軍予備校を経て、1904年に海軍学校を卒業
海軍中尉で病を得て予備役を経て退役。
その後は哲学を専攻1906年(明治39年)9月 京都帝大哲学を経て
近衛文麿を知り関係を深める。
慶應教授を経て、1907年よりアメリカ・ドイツに留学。
1926年に九州帝大教授・同法文学部長、1927年にはベルリン大学客員教授。
戦争中は徳富蘇峰が会長を勤める言論報国会の理事、事務局長を務め、国粋主義思想を広めた。
徳富蘆花の短編「梅一輪」「みみずのたはこと」所収に海軍士官葛城勝郎として登場する。
鹿子木 員信(かのこぎ かずのぶ、1884年(明治17年)11月3日 - 1949年(昭和24年)12月23日)は、
、戦後はA級戦犯容疑者として逮捕された。
妻は教育者である鹿子木コルネリア、
息子にベルリンオリンピックに出場したバスケットボール選手、鹿子木健日子。
渋谷駅の東口より徒歩5分 に金王八幡宮ガ鎮座される。
社伝によれば1092年(寛治6年)現在の渋谷の地に渋谷城を築き、渋谷氏の祖となった河崎基家(渋谷重家)によって創建されたとされる。
江戸時代には徳川将軍家の信仰を得、特に3代将軍徳川家光の乳母春日局は神門、社殿を造営したとされる
ここは未遂となった神兵隊事件1933年(昭和8年)7月11日に発覚した
、愛国勤労党天野辰夫らを中心とする右翼によるクーデター未遂事件の現場である。
この時期イロイロとある国家転覆事件。
神兵隊事件は未遂その後のもみ消しゆえかあまり知られていない。
血盟団事件、五・一五事件などの流儀を受け継ぎ、
大日本生産党・愛国勤労党が主体となって、閣員・元老などの政界要人を倒して
皇族による組閣によって国家改造を行おうと企図した。
金王八幡神社の集結所で警視庁捜査員らにより未然に発覚
天野辰夫ら約50人が検挙され、内乱罪が適用されたが、刑は免除された
その事が次の事件を生んでしまった。
この組織で生き残った人々で「まことむすび」という機関紙の元に集った。
「まことむすび」は昭和18年(1943年)10月21日の一斉検挙によって解散した
本間憲一郎を中心に、鹿子木員信、安田銕之助、小山茂雄、天野辰夫を世話人とした。
「吾は日本人なり」を指導原理とし、政治運動・宗教運動・右翼運動を否定した
機関誌『まことむすび』は薄井己亥を主幹とし昭和14年4月1日から発行された。
戦時刑事特別法の改正時に東條英機を攻撃するなど、毎号激烈な政府批判の内容だったため何度も発禁となった。
湯浅倉平内大臣暗殺計画、
昭和16年(1941年)8月にはついに実行された。
鹿子木員信「まことむすび」が実行した
弾丸6発を被弾する重傷の平沼騏一郎狙撃事件である。
今年は大逆事件100年。
明治43年(1910年)の大逆事件では、検事として幸徳秋水らに死刑を求刑したのが
岡山津山藩士の人・平沼騏一郎
それにとどまらぬ検事平沼騏一郎のことがある。
西園寺公望が育てた立憲政友会を潰すために国策捜査を行わせたのが帝人事件
平沼騏一郎の意向を受けた検事達の捜査は政友会幹部らの逮捕を優先
裏付けとなる証拠収集があまりにも杜撰であっために、
公判では全員無実無根であるとして無罪判決
元老西園寺公望の本姓は藤原。藤原公望(ふじわら の きんもち)。
大正13年(1924年)に松方正義が死去した後は、「最後の元老」として大正、昭和天皇を輔弼した
元老西園寺公望は第2次若槻内閣や浜口内閣に対する攻撃、天皇機関説排撃事件などで法曹界の雄・平沼騏一郎を嫌いその登用を避けた。
もう一つ避けた理由は平沼騏一郎が会長の麹町区平河町六番地の国本社である。
西園寺公望らからはファシズム思想とみられた。
五・一五事件後の調査では全国に20万人の会員を擁し、
教化団体から実行団体へと移行しつつあり、既成政党からは「一敵国」と見られていた
国本社
会長平沼騏一郎
副会長東郷平八郎、山川健次郎
官僚では鈴木喜三郎、塩野季彦、小山松吉、後藤文夫、
軍人では宇垣一成、荒木貞夫、真崎甚三郎、斎藤実、
財界からは池田成彬、結城豊太郎、
学界からは山川健次郎、古在由直らが会員となった。
平沼騏一郎は多くの右翼組織があるが源流からして
国本社を組織した本流中の本流である。
国本運動は田沼時代に松平定信によって提唱された。
明治維新当時には岩倉具視が「国本七箇条」を朝廷に献策している。
明治23年(1890年)創刊の雑誌「国本」は国本主義を鼓吹した。
前年の雑誌「日本及日本人」が創刊されている。
外来思想・社会主義思想が台頭し、東大には新人会が出来て新思想の根幹となり、国本主義は衰退した。
この新人会を反日本思想と見た上杉慎吉たちは「興国同志会」を起こし、国本運動を再興した。
「興国同志会」を「国本社」と改称して
法政大学総長第二東京弁護士会設立の竹内 賀久治
亜細亜大学の実質的創立者弁護士福島の人太田耕造
らが奔走して組織化された。
平沼騏一郎を顧問に迎え、機関紙「国本」を発行した。
終生、独身だった平沼騏一郎。
平沼赳夫が新党を立ち上げた、
平沼騏一郎の兄である経済史学者早稲田大学学長を務めた平沼淑郎の曾孫である。
赳夫の父は大協石油勤務の中川恭四郎
石川県金沢市出身の内務官僚・中川友次郎の四男。
赳夫の母は淑郎の孫娘である節子(東京裁判においては、老齢である平沼の代理として証言台に立った)
平沼赳夫は平沼家騏一郎とは女系での繋がりの孫。
当初は赳夫だけを養子にするつもりだったが、
恭四郎一家ごと養子とし、平沼姓を名乗らせたのが
平沼騏一郎。
右翼の襲撃のカチンの森を起こした国
Leading Moscow judge gunned down
モスクワで12日朝、エドワルド・チュバショフ(Эдуард Чувашов)さんという連邦判事が射殺された。
犯人はチュバショフさんの住むアパートの玄関で正確に彼の頭と胸を撃ち抜いた後、
床に落ちた薬莢を拾う余裕を見せた上で立ち去ったらしい。
監視カメラの映像では20代の男性と見られるが、
その落ち着いた様子からプロの殺し屋の犯行だろうと言われている。
ロシア語での報道はノボスチなど。
Eduard Chuvashov 判事は、国粋主義者や民族差別主義者の関与する裁判をいくつか手がけてきていて、
2月にも「白い狼(Белые волки)」と名乗るネオナチ組織の一味に対して厳しい有罪判決を下したほか
、先週にも移民を殺害したスキンヘッドの少年の裁判を担当したばかり。
ネット上で右翼団体に「ロシアの敵」だと罵られたり、殺人を予告する脅迫なども受けていた
ボディーガードを付けるのを断っていたという。
「ロシア人は怖いですね」とかいうはなしではない。
あまり報じられないだけ、
日本でも大阪駅の前で在特会の人たちが寄ってたかって元市議に暴行を加えるなどという事件が起きていた
どこの国にいても、国粋主義者たちには気をつけろ、ということ。
マスゾエ、ハシモト、そのまんまコクバル
、政党を作ったら、おれに命名させてくれ。・・・
「目立ちたがりたい党」、長いな。
「あほばか三銃士党」もうひとつだな。
これだ!!
「たらん党」
いや、タレント→「たれん党」これでどうだ。
最後の元老西園寺公望が居られれば言われたであろう
ファシズム思想の萌芽と。
何故かって・・
こいつらぁ~
きりがない。
橋の下の秘書、私設秘書=奥下剛光と本府の関わり。
大阪府のサイトの中にこんなページ↓
http://www.pref.osaka.jp/koho/hisho/index.html
行政と首長秘書との関係に詳しい方なら
「ん?」
と思われる項目もありますよね?
「公表できる」のがこのクラスですから。
じゃ、企業名を出したらどうなるのか・・見もの。
そうそう、奥下の兄弟がやってる居酒屋で160万もって逃げた従業員がいるらしい。
「知事様の秘書様のご兄弟が犯罪に!!」
ということで大阪府警が一生懸命らしい・・・
・・・府警なんて怒らすと・・・・
・・・・無理矢理身柄持って行ったあげくに取り調べて・・・
”公判で言う気力も起きないくらいの暴力”
を振るわれるからやめようっと(笑)。
大阪の橋の下のファシズム思想情況。
新党にファシズム思想のDNAの平沼騏一郎が蘇りつつある。
水と油の政治家が民主党崩壊にのみに標準を当てた政略で新党を結成した。
これを野合という。
金権と何故たたかわないという。
新政権は政治献金の一切の禁止といっているではないか。
佐高 信が新著を刊した。
『平民宰相 原敬伝説』角川学芸出版刊
これから学ぶものは・・・
「平沼騏一郎研究の必要性にアル。」
それを強調している宮崎学。
西園寺公望と原敬のリベラリズムをつぶすべく、
山県有朋や桂太郎らの藩閥政治家は「大逆事件」をでっちあげる。
その尖兵となったのが平沼騏一郎。
たとえば宮崎の人福島みずほ
、「原敬を田中角栄的金権政治家のパイオニア」
として批判している
どうなんだろう。
原敬は何と闘っていたのかも見なければならないだろう。
原敬は
政党の伸長を妨げるものとして、
軍部と検察を挙げた。
前者を象徴する人物が山県有朋であり
後者を象徴する人物が平沼騏一郎である。
小沢一郎は、郷里の先輩でもある原敬を尊敬する
多分、検察への警戒心を原敬から学んでいる。
検察に睨まれ逃げ切ってるのは小沢一郎のみである。
検察を牛耳る宗主国の植民地支配者のCIAを
亀井静香を通じて緊急時下取引をしたのであろう。
急遽解決した不思議さがある。
おそらく郵便資金での米国債買いの国富が持ち出されたハズ。
この場合国士の爺目は目を瞑らざる得ない。
今この国がなしえねばならぬ事
植民地からの脱却で国民生活をかっての生気ある世にせねばならない。
米国に持ち出された米国債権の国富の償還を新政権でなしえねばならない。
おそらく返さぬであろう。
横須賀に駐留する支配者たちが牙をむき出しにしてこよう
それにしても不景気が長すぎる。
好景気をまったく知らぬ世代に体験させるべきである。
宮崎学と佐高 信の対談『中坊公平的正義とは』社会思想社刊
、民本主義に対抗するため、司法エリートで国本社をつくった平沼騏一郎に焦点をあてる。
、被差別部落が国家に対する最大の脅威になると考え、水平社運動が広がらないように日本帝国細民会議を結成しと主張する平沼騏一郎。
細民とは被差別部落民のことであり、上から官製のそれをかぶせたわけである。
社会防衛という発想だった。
宮崎によれば、大逆事件の捜査指揮をしていた平沼騏一郎は、幸徳秋水らのグループを検挙して終る予定だった
その方針を途中で変え、
熊野新宮グループも逮捕する。
このグループに対しては、既に呼び出して帰しているのを、改めて捕まえたのである。
なぜ、平沼は方針を転換したのか?
この転換に日本のファシズムの原点を見る宮崎学
、こう指摘する。
「つまり官僚の持っている潔癖主義とか、それから今の社会に対するラジカルな否定とか、
法律が社会を変革できるんだという考え方とかになった時に、変わったんだろうと。
変わった時に平沼騏一郎が見たのは何か。
熊野新宮グループというのは和歌山県における被差別部落の坊主の高木顕明であり、医者のであるわけなんですよ」
天皇謀殺など考えていないこれらの人たちをも平沼は引っくくって処刑した。
そんな平沼について知るには自伝以外ない。
原敬の限界を云々するよりも、明白な敵の平沼を私は「研究」したい。
味方と敵をまちがえないためにもである。
週刊金曜日主唱佐高 信の意気やよし。
おなじゼミの毎日のヒゲの岸井成格
30年経るとこうも二人は変わるものであろうか。
岸井はもう三宝会に取り込まれているんであろうや。
ファシストらの解説するテrビ電波を日々聞かされウンザリである。
それにしてもネットウヨ以上に
しつこいこの猿骨ってナニ?
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