誕生日の花は、リラ
花言葉は、  思い出を大切に

ウィーン、パリのこの時期の花はリラ
日本だけでなく世界中が一番いい季節にあるのだろうか。

リラさけば たれもたびびと みなとまち

列島は南北に実に長い。
4月29日が秋田の桜の開花という。

25日朝4:00~NHKラジオ深夜便には驚いた。
  実況である。
テレビラジオのメディアは同時放送タル実況ゆえ素晴しい。
「この時間大使をお呼びするのは初めてです。」
ソリャァ~そうであろう。
・・・・ヤドヴィガ・ロドヴィッチ・・・
先日大統領をはじめ国家首脳が中央銀行総裁も含め墜落死の悲劇の
ポーランドの 駐日大使。
「私も詳しくないのですが・・・」
むらしまあきよしアナナウンサーも恐縮のテーマ
今日の話が「能の奥深さに魅せられて」

アナウンサーもタジタジの日本に実に詳しい
 素晴しき日本語と深き日本文化の造詣。           
おどろいたものである。
 ワルシャワ大で川端康成の雪国に触れたのがきっかけで日本通に。
谷崎潤一郎 遠藤周作、俳句、芭蕉・・クロサワ映画。
1993年外務省入る
94年に来日5年間勤務
三回目来日が大使。
008年11月に日本大使に就任され
09年は日本ポーランド友好90年の記念の年デ大統領を日本に迎いいれた。。
2010年にはショパン生誕200年
新しき能をポーランド語で書き下ろす
 ショパンと能を自らに課す
ショパン精神をシテ、ワキ方総てにあらわしたい。
原稿はポーランド語ゆえ
せきぐちとしまさ外国語大教授に訳していただいている。
初演は2011年2月ポーランド劇場それから日本公演。
今年は5月4日金沢で新作能を公演する

ショパンの魂が出るのは、夜中である。
ノアンでの作品。
当然ノクターン夜想曲をとりいれる。

役者も大変で途中装束を面も含め変える
ピアノ演奏が入って来る
壮大なるコラボ
「どうなっていくのですか」
「怖いです」
「お互いの国の宝物の融合でよりいいものにしたい」
「友情の規範、新しき文化の影響を考えると怖い」

伝統そのものを扱うゆえに1年の長きサポートをお願いしたい。
正しい戯曲の様式
寿司ブームだけでなく文化の日本ブームとしたい。

ポーランドも大事にしてた演劇に日本の伝統を加える。
文化でのアイデンディティ
それをなくすと国民もなくなる。
相手国の文化を理解してお互いの関係を考える。
その基礎は大事である。
政治経済の基本は文化がありそれがほかをリードする。

新作能
「調律師ショパンと能」
ポーランド大使館は目黒区にある。
後で触れる池袋モンパルナスを先駆する目白。

長崎県美術館開館5周年記念にスペインが誇る
プラド美術館所蔵 エル・グレコ《聖母戴冠》特別展示
23日からだったがHPナゾを見ると【緊急のお知らせ】 エル・グレコ延期とある。
ところが先ほどのニュースでは3日遅れの23日付き即刻点字会館にセーフ。

長崎が交流の覚書を交わしているスペイン国立プラド美術館、
日本でも高い人気を誇るスペインの画家、エル・グレコ(1541-1614)の《聖母戴冠》が日本で始めて
特別展示される。
最後にして最大の画家と称される、エル・グレコが描いた天の光彩
エル・グレコ《聖母戴冠》 1591-92年頃、油彩/カンヴァス
長崎県美術館2010年4月23日~2010年10月24日

宮崎じゅうがクラッシックの第15回宮崎国際音楽祭(24日〜5月9日)
都城門川を初日にくわえいよいよ開催である。
シャルル・デュトワ、徳永二男
と豪華な常連者は代わらず有り難いものだ。
メインプログラムスケジュールナゾはこちらにある。
http://www.miyazaki-mf.jp/15mmf/program/index.html
公式ホームページの企業をみていたら一社のみ県内企業以外がある。
http://mmf2010.exblog.jp/
http://www.seagaia.co.jp/japanese/event/detail.php?key=27
東北新社である。
PRを一手に受けたのであろう。
CM制作最大手の東北新社ゆえだ。、
創業者は秋田の人・会長植村伴次郎
由利郡東滝沢村前郷=由利町、現・由利本荘市の出身である
山形と鳥海山を挟んでる秋田の西の方に位置し子吉川河口で北前船の寄港地
前郷は市町村合併前の旧由利町の中心部
佐々木歯科医院(大正10年築)が残る。
明治維新の廃藩置県で本庄県は後の秋田に編入

銀座で小さなバーを経営している時に知り合った「劇団四季」の浅利慶太が名付けた
1959年 設立の「東北社」がもとになっている。1
オペラのプロデュースを目的とした創業だったが、翻訳業務を行なう。
植村伴次郎が外国テレビ映画の日本語吹替業に乗り出したことで社長と対立。
「東北新社」を設立。
最近はアニメ作品宇宙戦艦ヤマトの版権を買い取ったことで知られる。
秋田には思いが深い
なにもきりたんぽを食した事ではない。

よみがえり
2005年9月20日
http://36488.diarynote.jp/200509212305230000/
青春の蹉跌1月6日
http://36488.diarynote.jp/m/?page=39
で日本最初の労働者文学として発刊された秋田土崎の同人誌1921(大正10)年創刊「種蒔く人」をアップしている。
金子洋文、小牧近江今野賢三(いずれも秋田市土崎生まれ)らが中心となって土崎で印刷・200部発行。
レーニンの第3インターを日本で始めて紹介するなど、社会主義運動に大きな影響を与えた。
資金不足から3号で休刊するも、同年10月には東京で再刊、
創刊号をはじめたびたび発禁処分を受けながら、大正12(1923)年10月の関東大震災まで続き、わが国の解放運動・芸術運動に大きな足跡を残した。
「種蒔く人」を現地に訪ねた事を書いている。

岩波書店創業者岩波茂雄を鎌倉の墓標に訪ねて以来の事。
その後訪ねた熱海の岩波茂雄別荘「惜櫟荘(せきれきそう)」は今は54歳から時代作家の佐伯泰英(67)が再開発から割けるため
譲り受けている。
4月第二週俳優で読書書評の児玉清が其処を訪ねて対談がNHKテレビで放映されていた。

秋田港は雄物川の河口に発達した港で、土崎港と称していた
昭和16年の秋田市・土崎港町の日本石油秋田製油所
このくにで稀なる石油を発掘していた、
最後の空襲を受けた秋田市土崎港
昭和20年8月14日の22:30から翌15日の03:30まで
12,047発・約1,000トンの空爆を受けたところである。 

フランス留学の金子洋文が持ち帰った「クラルテ運動」が種蒔く人として具体的に結実。あの岩波のマークである。
種蒔く人の創始者小牧近江と仲間たちも現地に訪ねた青春期の爺目である
秋田・土崎のかえりであった。
金子洋文、今野賢三らと、秋田の土崎で『種蒔く人』の土崎版をだした。
現地では顕著会の会長をしておられた当時県議の案内で自費出版の画集をいただいた。
訃報の電報をいただいたときは疾風怒涛の如き中で失礼をしてしまった。
社会改革運動に飛び回りその後の労組専従であったからである。

種蒔く人の小牧による編集後記。
「本号は程度は低いが、次号からはずつと高めたいと思つてゐます。
そしてこの雑誌は主として文学的に進み、
外に月一回位宛パンフレツトを発行します」
なんという開き直り!
いや、
なんという理想の高さ!
鳩山総理の思い切った自虐ネタ調子で切り出した党首討論
 「私は愚かな総理大臣かも知れません」
冒頭答弁に似ている。

さて、雑誌の主宰である小牧近江本人に「程度が低い」と言わしめた土崎版「種蒔く人」。
これは、僅か3号で一時休刊。
、新聞紙法による刊行物の保証金500円が払えなかったためいわゆる発禁ではない

その数か月後の1921(大正10)年10月、東京・青山発行とある再刊号
、なるほどこれは見違えた!
 60頁の立派な冊子、放映終了したウエルカメでの雑誌みたいである。
表紙の裏側には、かの有名な「宣言」が登場する。

僕たちは生活のために革命の真理を擁護する。
種蒔く人はこゝに於て起つ――世界の同志と共に!

そして、会員及び執筆者の名前がびっしりと3段組で記されている。
秋田雨雀、有島武郎、馬場孤蝶、平林初之輔、神近市子、……
この雑誌が「プロレタリア文学の先駆」と言われるのも頷ける面々である。

秋田土崎の友人たちの間で始めた同人誌が、文壇を巻き込む雑誌へと見事に変貌を遂げている。

雑誌白樺から新しき村の実践運動の日向の地の
武者小路実篤のところにも届いている。

土崎図書館にはコーナーがあり、
秋田図書館に関係図書がある。
この図書館長北条常久に研究書籍がアル。
「種蒔く人研究―秋田の同人を中心として」
「種蒔く人 小牧近江の青春」

執筆者の中に林倭衛(はやし・しずえ)という画家
娘さんがバー経営者にアル林聖子さんで、太宰治の「メリイクリスマス」という短編に出てくる
女学生「シズエ子ちゃん」のモデルのハズ。
種まく人執筆陣に林倭衛がアル。
このひとがなぜプロレタリア雑誌メンバーと交流があったのか。

堺利彦山川均の平民新聞には高浜虚子の師正岡子規も社員で居た。
根津の三平師匠宅に近い子規庵から投稿した
あるいは身体的不遇者の生活費を支えた。
前編がNHKで放映され秋に後編が放映される坂之上の雲で詳しくここのところが描かれていた。

同時代背景に大杉栄虐殺がある。
そのときの肖像画を書いた人が林倭衛でアル。
大杉栄や辻潤の肖像画を描いている画家

またこの地は秋田藩士大和田家で
古代日本の純粋な神道を追求した国学者
平田篤胤(1776~1843)を輩出した県でもある。
25歳の折、備中国松山藩士・平田篤穏(あつやす)の養子となる。
本居宣長の著書を読んで国学を志し、さらにその弟子入りをめざす。
宣長はすでに他界していたため、「夢の中で宣長に会い、弟子入りを許された」と語っている。
 篤胤は、上記夢の話にもみられるように、神秘性を重視する性癖があり、
その研究は、宣長の学統・国文学から、わが国古来の神秘性を追求する方向へと傾斜して行く。
1812年に刊行した「霊能真柱(たまのみはしら)」は、宣長の影響下を脱し、独自の見解をうちだした著作。

 神秘性追求から始まり、国学の宗教的側面、すなわち神道へ最終的に辿りついた
驚くべき結論を導き出す。
それは「この地球上、日本こそが唯一無二の神の国であり、儒教・仏教・キリスト教も神道から派生したものに過ぎない」
とする狂信的日本至上主義。
この考えの重要な側面は、地球上最上の神の子孫である天皇に絶対的忠誠を誓う、という。

 日本沿海に外国の艦船が出没し、幕藩体制も揺らぎをみせ始め、国内外の激動を予感させるこの時代、
著述しつつ、行動的アジテーターでもある篤胤は、次第に名声を博す。
しかしその熱烈な尊皇鼓吹や、過激な儒教攻撃は幕府の存立に関わるとみなされ、
著書刊行差し止めの上、郷里秋田へ追放され、その生涯を閉じる。
篤胤の思想は、幕末維新の尊皇攘夷主義の精神的支柱となったばかりか、昭和の軍国主義にまで影響を与えた。

 国学は、儒教や仏教など外国からもたらされた価値観を一切排除し、純粋な日本文化の復活を主張する、
江戸期から興った新しい学問。
ゆえに国学には二つの大きな流れがある。
「古事記」「万葉集」「古今和歌集」「新古今和歌集」など古文献を研究対象として、
純粋な日本思想の発掘と復古を目指したもの
、契沖(けいちゅう)、加茂真淵、本居宣長などがその代表。

もう一つは、このような日本の古典を研究しつつ、古代からの神道思想の体現に、より深いエネルギーを傾注した人たち
、山崎闇斎(あんさい)弟子平田篤胤などがこの学派。

地元紙連載の「窓」面の自分史シリーズ
24日付から、H氏賞詩人杉谷昭人(75)の「詩の海 詩の森」を連載。
教祖委員長のとき一緒に仕事をした
91年に詩壇の芥川賞といわれるH氏賞を詩集「人間の生活―続・宮崎の地名」で受賞。
93年、県文化賞。、高校で英語教諭ゆえ爺目の師数学教師で詩人金丸桝一師とも懇意であった。
詩人黒岩敏郎大兄様にはその事を存じておられさらに爺目のまとめた落語論でさらに賞賛され知己を深めた。

五代目小さんの先祖二代目小さんは宮崎内藤藩の出の武士の古藤家楽三郎。
漱石の愛した三代目の師匠である。
その子息が高鍋町雲雀山に自宅を構えておられた古藤家。
公務で訪ねた折目鼻をつけていたゆえ玄関先で五代目小さんの狸の額の飾り物で心証を深めた。
その事など含めまとめて雑誌に投稿したらその事が不思議にその方の目に留まった
灯台もと暗し。
県庁在籍の古藤順二郎次長その人であった。
爺目は二代目小さん墓地参拝のことナゾを書いてたゆえビックリされておられた。
ここに登場されてる方々すでに鬼籍にアル人・・・嗚呼ッ!。
時代は余りにも早く走りぬける。

「池袋モンパルナス」には熊谷守一美術館が残っていて、目白文化村に続く一連の昭和モダニズムを知ることができる。
その中心者寺田 政明(1912年1月4日 - 1989年7月12日)は福岡八幡市=現北九州市八幡西区の出身の洋画家である。
実子に俳優の寺田農、女優の寺田史がいる。

詩人の小熊秀雄もメンバーである。
北海道小樽市稲穂町に生まれ幼少期を樺太で過ごし、泊居高等小学校を卒業。
養鶏場の番人など様々な雑務作業に従事した後、1922年より旭川で新聞記者を務める。
この頃から詩作を始め上京、1928年、27歳で漫画出版社・中村書店の編集顧問となる。
旭太郎名義で原作を担当した漫画『火星探検』(1940年)はSF漫画の先駆的傑作とされ、
手塚治虫、小松左京、筒井康隆、松本零士らに大きな影響を与えた。
東京豊島区千早町三十番地東荘にて39歳で夭折。

 小熊秀雄「流民詩集」
青空文庫で無料でネットで読め有り難い。

  新ドンキホーテ

若い跳ねまわる仔馬、
青春時代の勇気、
それを誰が引継いでくれるだらうか、
勇気のやり場は
街にはない、
若いくせにノラリクラリとした
思索がある、
街の若い仔馬は
精力のやり場にこまつてゐる
女馬は強い匂ひハッカ草を
たてがみにさして跳ねてゆく
男馬がちかづくと
女馬はうるさいといつて
後脚で蹴る。

ああ、ちかごろは日増に
滑稽な出来事が殖えてきた
そこで私が芝居気を出し
ドンキホーテを気取つて
動揺の多い街の中で
槍をふりまわす
槍は空をきつて
わが勇気は地に落ちる
だが私は信じなければならない、
それが芝居であるといふことを
忘れてはならない、
槍をふりまはすことも
敵にきつてかかることも
敵を切り倒すことも
敵にきられることも
すべては千年の後には
をかしな物語りであつたことがわかる
一九四〇年代の若い青年は
勇気のやり場に困つて
クラゲの三杯酢で一杯のんで
女給の脛に喰ひついたといふ
物語りも記録にのこるだらう
すべては順調だ

平野は涯もなく
風車は嘲ける
見よ、行手に白い羊の大群
ドンキホーテの
馬の鼻づらの向ふところに行手あり
ドンキホーテの手に
武器のある間は敵がある
進め
進め
青春の勇気を労費せよ。

25日は普天間の日となろう
交渉は熾烈を極めている。
日米に不可解なる動き・・
??岡田大臣は24日長崎にアル。??
大村演習場??

ワシントン・ポスト「日本側が辺野古案を呑んだ」
米紙ワシントン・ポスト報道。

米軍普天間飛行場の移設問題。岡田克也外相が駐日米大使と会談。
辺野古現行計画を一部修正して受け入れると告げた。

岡田外相は、辺野古沿岸部(現行案)に、滑走路の位置変更など幾つかの修正点を加えた代替案を検討と表明。

☆Japan moves to settle dispute with U.S. over Okinawa base relocation
(米紙ワシントン・ポスト。)

http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/04/23/AR2010042305080.html

The Japanese government indicated Friday that it would broadly accept a plan to relocate a U.S. Marine Corps base on Okinawa, a move that could ease months of discord between the two allies, U.S. and Japanese officials said.

Foreign Minister Katsuya Okada presented U.S. Ambassador John V. Roos with a proposal to settle the dispute, telling him that Japan was moving toward accepting significant parts of a 2006 deal to move the Futenma air station from the center of a city of 92,000 to a less populated part of Okinawa, the sources said, speaking on the condition of anonymity because of the sensitivity of the issue.

Okada, however, suggested some changes, including altering the design of the runway at the new air station, planned for the town of Henoko, and moving parts of the Marine Corps facility to an island about 100 miles from Okinawa, the sources said. U.S. officials said they were pleased by the proposal but stressed that it was a first step and that Japanese officials would be providing more details next week.
(以下省略10年04月24日)

社民党関係者「普天間で急転直下の動きあり」
横田昌三(社民党で政策担当の事務局長を務める)
http://twitter.com/secondsecretary/status/12684382250
普天間で急転直下の動きあり。??
〔これに関連か?〕

福島瑞穂は宮崎の人。
http://twitter.com/mizuhofukushima/status/12611734963
北マリアナ連邦上院が、普天間基地の海兵隊を受け入れるのは、テニアンが最適地であるとの決議を行いました。下院は、来週火曜日の予定です。テニアンが一番いいのではないでしょうか。
「きっこの日記」

米軍の準機関紙である「スター・アンド・ストライプス紙」が、21日付で、普天間飛行場のテニアン移設に好意的な内容の記事
http://www.stripes.com/m/article.asp?section=104&article=69453
を掲載した。

記事では、初めに「日本ではすべての場所が海兵隊普天間飛行場の移設を受け入れられないと言っているが、テニアン島では議員らが誘致のための推進運動をしている」と書かれ、北マリアナ諸島の上院議会で「沖縄の米国海兵隊航空部隊の移転先としてテニアンが最善の場所である」という決議を全会一致で可決したことを報じている。

そして、テニアンの3分の2の土地がすでに米国防総省に賃貸されていることや、第二次世界大戦の時にテニアンがB29爆撃機の主要飛行場として利用されていたこと、海兵隊の司令部が置かれるグアムからわずか80マイルの距離であること、北マリアナ諸島の人々にとって海兵隊の誘致が大きな経済的利益につながることなどをあげている。

一方、日本国内に関しては、当初の案であった辺野古が住民の反対によって実現不可能になったことや、水面下での政府案とされていた徳之島も住民の反対によって実現不可能になったことなどから、日本国内で移設先を探すことは極めて難しくなったと書かれている。

池田香代子師のブログにアル。
グワムからテニアンまで80マイルとありますが、これは130キロメートル弱です。アメリカ側が主張する、人員と輸送機は120キロ以内に位置しなければならない、という条件にぎりぎりで合致します。米海兵隊基地国外移設の、アメリカ側のお膳立てはもう整っている、ということです。

米軍に近い筋が、テニアンにすくなくとも拒否反応をしていないということを、私たちは知る必要があります。なにもあくせくして国内だ、県内だと、「移設先」を捜すことはないのかも知れないのですから。

基地受け入れ先探しより、地元の合意があり、人員と輸送機を近くに置ける基地の用地など、県内にも国内にもないのに、なぜアメリカはそういうことをこの期に及んで言ってくるのかを考えたほうが実りあるかも知れません。なぜ無理を承知でそのような条件を出すのか、と。私は、アメリカは海兵隊基地を日本に置くことをとっくに諦めて、かわりにお金をせしめるつもりなのではないかと、勘ぐっています

さてはて・・・
米国まで巻き込んだ田舎芝居??

はじめに・・
結論ありきだろうッ!??
国外移転・・・
日本にこれ以上、他国の軍隊が駐留し続けることも、日本と日本人に対する冒涜ッ!。
石原の言うところの腰抜けッ!の65年間
ただ・・・お前もその一人であったろう。

どうか、メディアからなんといわれようと自国軍隊は自国の領土に移ることを・・・
かの国に認めさせて・・・
沖縄の悩みをヤマトンチュウモ享受できるよう・・
それが25日普天間の日である。
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